南ユダ王ヨシヤは宗教改革をしたことで有名である。しかしその子ヨヤキムは(エレミヤ1:3)父と異なり不当な利益を求め民に圧制を行った。また、人身犠牲を流行させるなど、父王の宗教改革を後退させた。そのような時代にエレミヤは預言者として立たされたのである。
エレミヤは王、民に対して「こんなことをしていたら神の怒りは避けられない」と言い、迫害される。王に対する神の言葉(22:1−5、22:13−16など)は王の怒りを買い、王と同じような上流階級の人々からエレミヤは裏切り者と見なされた(20:2)。時には命を失いそうになる状況の中で、エレミヤは何度も神に向かって嘆いた(11:18−12:6、15:10−21、17:14−18、18:18−20、20:7−10など)。そして嘆きながらそのつど神により新たに立てられ、御言葉に促されて悔い改めを迫り神の真実を語り続けたのである。
エレミヤ書30章はユダの滅亡の日の預言である。北イスラエルはすでに滅んでいるが南の滅亡も裂けられない、しかしまたそこから救われるという預言である。裁くことのできる神が救うこともできる。
バビロンがアッシリアにかわってメソポタミアを支配し始めたころ、エジプトも当地の強大国であった。そしてエジプトはバビロンと対抗するためにアッシリアと同盟関係を結ぶ。その頃南ユダ王ヨシヤは中立を保っていたが、エジプト軍がユダに入った際にそれを迎え撃ち、メギドで戦死する。こうして南ユダはエジプトの属国になる。 エジプト王ネコは南ユダ王としてエルヤキムを擁立するが、当時は属国の王を指名して改名させる習慣があり、エルヤキムはヨヤキムに改名させられる(列王記下23:34)。その後バビロン王ネブカデネツァルがエジプトを攻め、エジプトの属国であった南ユダはバビロンの敵となったため、ネブカデネツァルはユダに侵入した。南ユダ王ヨヤキムは死に、その息子ヨヤキンが後継となった(列王記下24:6)。バビロンの軍はエルサレムを包囲し、ネブカデネツァルは神殿から金銀を奪い、南ユダ王ヨヤキンと母、約一万人の技術者指導者をバビロンに引き連れていった。これが「第一回バビロン補囚」である。引き続きネブカデネツァルはマタンヤをゼデキヤと改名させ南ユダ王に即位させる。
この時、一万人ほどの指導者たちがバビロンに引き連れられ、当地で生活をしていた。彼らは捕囚の地で「なんとかして反バビロン同盟諸国が勝利し解放されないか」と願っていた。その中にハナンヤという預言者がおり、彼は「この補囚は2年で終わる」と語った。すると捕囚民は皆それに期待し浮き足だった。そのことを知ったエレミヤはその楽観的な信仰を罵り「いや、捕囚は70年続く」と預言した。実際、第一回捕囚から解放まで(ペルシャ王キュロスによる)60年の期日を要した。南ユダは再度バビロンに攻められ完全に壊滅させる(前587年)。ゼデキヤの息子たちは処刑され、ゼデキヤ自身もそれを目撃し目をえぐりとられ連行される。南ユダに残留したのは貧しい人々のみであり、それ以外の人はほぼバビロンに連行されてしまう。
補囚の生活とはどのようなものか。「囚われの民」とは言え、彼らは単なる奴隷ではなく、相当の自治権が認められている存在であった。特定の区域に住まわせられるという限定はあるが、そこには集会の自由もあった。それほどの自由が認められていた彼らではあったが、祖国から離れて生活する中で「神から見捨てられた」という絶望に支配されていたのは事実である。「哀歌」などにはそのような心情が表れている。エレミヤは実際には「バビロンに対して抵抗するな」という立場をとり、第二回の補囚の時に一度は連行されたにもかかわらず途中で解放され、エルサレムに帰還した。浮き足立つ民に「捕囚は70年続くのだから腰を落ち着けて捕囚の地で生きるように」と手紙を書いた(29:1−23)。「よく祈って信仰を持って生きなさい」という手紙である。エレミヤは捕囚を「神の裁き」と捉えるが、同時に「捕囚期は苦しみの時ではあるが神のご計画は必ず希望につながっている」と語った。エレミヤの預言活動は南ユダの滅んだ直後まで続いた。
今回、「エレミヤ書」を説教では2回取り上げる。聖書研究祈祷会において歴史的背景を学ぶと、預言活動が歴史を支配される神のわざであり、神がイスラエルをどうして選び滅ぼし新しい民をつくったのかということを知ることができる。旧約の歴史の先におられるイエス・キリストを知るためにも、我々にとって旧約聖書を学ぶことは大切なことなのである。