エレミヤ書11章も「契約」について語っている箇所である。「旧約聖書」「新約聖書」と言われるとおり、神の約束、契約は聖書全体を貫いている。キリスト教は「契約の宗教」であり、換言すれば「人格の宗教」である。それは「自然の宗教」とは異なり、神と人との人格関係に基づく「契約」がその根幹にある宗教である。それはまた「良心、倫理の宗教」でもある。出エジプトを経てイスラエルの民に与えられた恵み、戒めとしての「十戒」は、神と人との倫理的な関係を表現しているし、預言者エレミヤやホセアは神と人との関係を「夫と妻との契約」に模して語った。「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」と西行が詠んだような神観、宗教観とは異なり、聖書は「神の前に生きることは神の戒めに生きること」と語る。神と人との契約の要点は「・・・わたしの声に聞き従い、あなたたちに命じるところをすべて行えば、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる」(11:4後半)というところに示されている。神はイスラエルの民をご自身の民とするためにエジプトから導き出し、モーセを仲介人として彼らと契約を結んだ。いわゆる「シナイ契約」である。「今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19:5−6)との神からの語りかけを、モーセを通じて聞いた民は皆、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」(19:8)と一斉に応答する。ここに「契約」が締結されたのである。イスラエルの民にとって「契約を存続させる、守る」ということは、すなわち「課せられる十戒(律法)を守る」ことであった。しかし、彼らはそれを破ったのである。神は彼らに対し「今日に至るまで、繰り返し戒めて、わたしの声に聞き従え、と言ってきた」(エレミヤ11:7)にもかかわらず、彼らは神の呼びかけに「耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ」(11:8)。それゆえ神は「裁きとしての滅び」を告げるが、なおそこでも神は彼らを「わたしの愛する者」(11:15)、「美しい実の豊かになる緑のオリーブ」(11:16)と呼んだ。神の目的は、決してただ契約を破った民を滅ぼし裁くことではない。罪人が立ち返るのを待ちたもう神の愛がここにあらわされている。
「神の民」として契約を結んでいたはずのイスラエルであったが、紀元前722年に北イスラエル王国に、続いて紀元前587年に南ユダ王国に「裁きとしての滅び」が臨んだ。滅んでしまった神の民イスラエルについての「もうこれで終わりなのか、神との契約は完全に破棄されてしまったのか」というテーマに対して、エレミヤは「神の計画、希望」「新しい契約」を語った。この「新しい契約」とは、民の側からは修復、回復できない、神の一方的な恵みにより再び成り立つところの契約である。それは神がイスラエルを永遠の愛をもって愛しているゆえのことであった。滅びの出来事を前にし、エレミヤは「この民の回復の希望」を語った。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:31-33)。神は「新しい神の民」を興し、これと契約を結ばれる。神はご自身の民を必要とされる。歴史の中でご自身の御心を示すための「証人」としての民が必要とされるのである。「新しい契約」の目的もまた、この世界に「神の民」を存在させることであった。
繰り返し指摘されるとおり、イスラエルの民は、確かに神の戒めに「従わなかった」者であったが、また一方で「従えなかった」者としての側面があった。パウロも言うように、旧い契約、律法によっては、我々の罪が明らかにされるほかはなかった(「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」、ローマ3:20)。しかし「新しい契約」は、「義務」「守らないと神の前に立てない者になる」というものとして石に刻みこまれたのではなく、「神の赦し」に基づいて自発的に神と隣人を愛し、神の戒めに従うものになるよう心の中に刻み込まれた。その時、人は「小さい者も大きい者も」神を「知る」(エレミヤ31:34)ようになる。「知る」とは「知識」として知的に神を認識するということではなく、「神との交わりの中に生かされる」ことを指す。それは神の赦しと愛に基づく交わりである。
この「新しい契約」は、エレミヤが語ってからおよそ600年後に、イエス・キリストによって成就した。主イエスは最後の晩餐において「新しい契約」が始まることを宣言した(「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」、ルカ22:20)。エレミヤ書31章で語られるとおり、この契約は神の赦しに基づくものである。主イエスが我々の罪を引き受け贖いとなって下さったゆえに、その赦しを受ける一人ひとりが心において神と結ばれる。あまりにもかけ離れた神と我々の間に神の側から架け橋を造ってくださった、この神の愛によって生かされるのが「新しい神の民」である。
キリスト者とその教会は「新しい神の民」と呼ばれるが、神の愛に赦されながらもなお神の戒めに生きることのできない自らの現実に直面し、そのことを告白せざるを得ない存在である。我々は「既に」神の民とされたが、「未だ」完全な神の民ではない。「終わりの日」が来るとき、あの「新しい契約」は完全に成就され、我々は全き「神の民」とされる。キリスト者とその教会は、この「既に」と「未だ」の途上を歩み続けているのである。