斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
聖書教育誌は「神は、苦しみ痛む人々と共におられる。」ことを強調しています。ヨセフ物語で大切な視点です。人間の弱さ、失敗、苦しみ、その他多くの負の出来事さえも、神はより大きな救いのみ業をもたらすために用いて下さる、という福音に気づかされます。人生がより過酷になっていくように思われる中で、変わることなくヨセフに伴い続けて下さる神に学びましょう。そして、今回もヨセフ物語と主イエスの生涯の類似点を確認して参ります。そこから導き出される私たちの課題を共に考えたいと思います。
◆ヨセフとポティファルの妻
39:1 ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。 39:2 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。 39:3 主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、 39:4 ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。 39:5 主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。
*2節に語られている「主が…共におられた」という言葉は、創世記の中心テーマです。今回は特にこのテーマが強調されています。2節と3節で繰り返し語られ、その祝福は5節にあるように、ヨセフが関わるすべての事柄に広がりを見せています。
39:6 主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。 39:7 これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。「わたしの床に入りなさい。」 39:8 しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に言った。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。 39:9 この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」 39:10 彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。 39:11 こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、 39:12 彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入りなさい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。
*ここで、ヨセフと主イエスとの類似点を見てみましょう。
- ヨセフはエジプトに奴隷として連れてこられ、誘惑に遭うまでは順調に侍従長ポティファルの家で奴隷として仕えることになります。➔主イエスの生涯も、荒野での誘惑(マタイによる福音書4章参照)を受けるまでは家族と共にいて、家族に仕えておられました。どちらも始めに築き上げていた生活から、誘惑をきっかけに、その後に過酷な人生を送ることになります。
- また前回の話では、ヨセフが穴に入れられて殺されかけ、そこから引き上げられて、全く新しい人生に向かって行きます。➔それはちょうど、主イエスがそれまでの家族との生活から離れて荒野での誘惑を受ける前に、人生の一大転換を意味するバプテスマを受けられた出来事と似ています。バプテスマとは、それまでの人生と決別し、これからは神が導かれる新たな人生を歩み始めることを意味するからです。ヨセフも主イエスの場合も、物語の流れが似ています。
*この箇所にはもう一つ注目しておきたい内容があります。
- 誘惑に打ち勝ったヨセフ。その根拠にしたのは9節にあるように、主人に対する忠実でありたいという強い意志と神に対して罪を犯すことになることは決してできないという自覚によるものでした。➔主イエスの生涯も、常に主なる神のみ心に忠実に生きること。そして、罪の誘惑に打ち勝って生き通すものでした。ヨセフの信仰第一の生き方と主イエスの生き方が重なり合います。
私たちの人生にも様々な誘惑があります。時には大きなリスクが伴うとしても、誘惑の現場からヨセフのように、できるだけ早く離れることを心がけたいと思います。
39:13 着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、 39:14 彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。「見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。 39:15 わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」 39:16 彼女は、主人が家に帰って来るまで、その着物を傍らに置いていた。 39:17 そして、主人に同じことを語った。「あなたがわたしたちの所に連れて来た、あのヘブライ人の奴隷はわたしの所に来て、いたずらをしようとしたのです。 39:18 わたしが大声をあげて叫んだものですから、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました。」 39:19 「あなたの奴隷がわたしにこんなことをしたのです」と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、 39:20 ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。
*ボティファルの妻の偽証によって、犯罪人として投獄されるヨセフでした➔主イエスも偽証によって有罪とされて投獄されます。しかも両者で共通するのは、どちらも訴えに対して無実を主張する弁明はせず、不思議なほど沈黙し続ける主人公が描かれていることです。
39:21 しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、 39:22 監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。 39:23 監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。
*人生には避けられない試練が多数存在します。主なる神が、それらを全て未然に防いで下さるという約束はありません。主イエスの人生も常に試練の連続でした。しかし、それらの試練に神は常に寄り添い続けて下さるというのが聖書の福音です。主が常にヨセフと共におられたというテーマは➔新約聖書のマタイによる福音書1章23節「インマヌエル=神は我らと共におられる」の主題と対比することができます。
*ヨセフは獄中にあっても常に希望を失わずに、自分が置かれた場所で最善を尽くそうとしました。そして、その働きが認められていくことになります。➔主イエスも、様々な苦難や罪深い生活の中に捕らわれている人々に仕え、希望を与えていかれました。ここにもヨセフと主イエスとの類似点を見ることができます。*ヨセフ物語をこのような視点で読み直す時、ヨセフの人生の中に主イエスのご生涯を重ねて見ることができます。同じように、主イエスのご生涯の様々な出来事に、私たちの人生と重なり合う様々な福音が語られていることに気づかされるのではないでしょうか。ヨセフは決して欠点のない完全無欠の人間ではありませんし、その人生は順風満帆というにはほど遠いものでした。むしろ、その人生には様々な試練が襲いかかり、絶望してもおかしくない体験を繰り返します。それでも、神はヨセフの人生に寄り添い続け、ヨセフを用いて救いのみ業を実現していかれます。私たちの人生も、少しでも神に用いられ、主イエス・キリストを証しするものに近づけられていきたいと願わされます。
アイキャッチ画像 thanks! to Carlos M. AbellaにinるPixabay