ヨハネによる福音書5:19-30
前回の箇所は、主イエスがべトザタの池で長年病に苦しんでいた人の癒しを行った場面であった。そして「その日は安息日であった」(10節)。それゆえにユダヤ人たちは「律法を守らない者」として主イエスを迫害し始める。更に、「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされた」(18節)主イエスを、ユダヤ人たちは感情的にも許しておくことができず、「ますますイエスを殺そうと狙うようになった」(18節)。本日の箇所は、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)という主イエスの言葉の解説であるとも言える。
本日の箇所には、「はっきり言っておく」という主イエスの言葉が繰り返し見られる(19、24、25節)。この語は「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」(岩波訳)、「まことに誠に汝らに告ぐ」(文語訳)などと訳されてきたが、いずれにせよ、主イエスのお話しになる教えが重要であることを示す時に、その宣言のようにして用いられる。主イエスは「父と子の関係」を語られる中で、「父と子が一つであること、同じであること」「父の働きがあってこそ子の働きがある」ということを強調された。
ここで『ヨハネによる福音書』の冒頭部分が再び思い出される。「初めに言があった」(1:1)の「言(ロゴス)」とは主イエスを指す言葉であった。すなわちこの箇所は「初めにイエスがおられた。イエスは神と共にあった。イエスは神であった」と言い換えることが可能である。本日の箇所でも、それと同じことが語られている。主イエスは「病気を癒す」というわざによって、御自身の働きを指し示された。「病気が癒されること」が指し示すのは「人間の根本的な命の癒し」「永遠の命」である。このことはサマリアの女との対話の中でも明らかにされてきた。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(4:14)とは、「物理的に喉が渇かない」ということではなく、「命において渇きが無い」ということであり、これもまた「永遠の命」「人間の根本的な命」について語っているのである。
人々は「病気の癒し」というわざを見て驚いた。しかし主イエスは「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くようになる」(20節)と言われた。なぜなら「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(21節)という大いなる出来事が待っているからである。これまで繰り返し学んできたように、『ヨハネによる福音書』は出来事を時系列に従って記すスタイルをとっていない。主イエスの復活に出会った者がこれらの言葉を記しているのである。物語の中で「復活の主イエスの出来事」は常に顔を出している。「先在のロゴス(地上に人間として来る前の主イエス)」「受肉のイエス(地上で人間として生きられた主イエス)」「高挙のキリスト(復活し天に挙げられた主イエス)」は、『ヨハネによる福音書』の中に同時に記されている。ここに記されているように、主イエス御自身も「命を与える」ことができる方である。「命を与える」という権能を与えられた主イエスは、父なる神のもうひとつの働きである「裁き」(22節)の権能をも預かっておられる。しかし、驚くべき癒しのわざを行った主イエスは当時の人々に敬われなかった。それだけでなく、主イエスは迫害され命を狙われるようになった。このように主イエスを敬わないことは「子をお遣わしになった父をも敬わない」(23節)と見なされるのである。
24節を岩波訳では「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。私のことばを聞いて私を派遣した方[の言うこと]を信じる人は永遠の命を持っており、さばきに陥ることなく、死から命へと[すでに]移ってしまっている」と訳している。注目すべきは「終末の時」ではなく、むしろ「現在の時」であるということが語られている。「終末」には二種類ある。一つは「黙示文学的終末」と言うことができるが、「人間が死に、主イエスが再び来られた時」に到来する「終末」である。もう一つは「現在的終末」であり、主イエスを信じる者には既に最終的な終末を先取りする形で「永遠の命」が与えられていると考えることができる(cf., ローマ6:1-11)。主イエスを信じる者たちが既に「死から命へと移っている」(24節)とは大切な教えである。今、復活の命を頂いて生きていることをもう一度確認したい。
27節以下では、「黙示文学的終末」について語られている。「時が来ると」(28節)とあるように、時間の経過の中で「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくる」(29節)のである。ここで用いられる「人の子」(27,28節)という言葉は、『ダニエル書』の中の記述を想起させる(ダニエル7:13-14)。幻の中で「人の子」は「権威、威光、王権」を受けるとあるが、その預言の成就が「人の子」としての主イエスなのである。「人の子」という語は、共観福音書においては69回、『ヨハネによる福音書』においては12回登場するが、原則として主イエスのみが御自身を指すために用いる称号である(例外:使徒7:56)。また「人の子」とは『ヨハネによる福音書』において「天から下ってきて救済のわざを成し、再び天に上がる救済者」「苦難の主の僕」と結び付けられている。いずれにせよ、「黙示文学的終末」と「現在的終末」は密接に結びついている。今、主イエスを信じることによって永遠の命が先取りして与えられていることと同時に、聖書は「死んだ後、どうなるのか」ということもしっかりと語るのである。
30節では、ここまで語られてきた「神と主イエスの関係」についてまとめられている。ここでは、「父なる神の御心を主イエスは十全に行う者である」という説明により、再度「父なる神と主イエスが本当に一つであること」が強調されている。主イエスがこの世の生涯において語られたことを通して、我々は「神との出会い」を頂く。主イエスを通して「永遠の命」に招かれ、「永遠の命」に既に与る者とされる。この先に肉体の死を体験しようとも、既に与えられた「永遠の命」は確実なものである。それゆえ未来は不安なものではない。主イエスを信じる者は既に「永遠の命」の喜びに与っているのである。