ヨハネによる福音書5:1-18
今回の舞台となっている「ベトサダ」の池と「五つの回廊」(2節)は、近年の考古学発掘により遺跡が発見され、その存在と規模が確認された。縦120メートル、横60メートルの池を四つの回廊が囲み、池を二つに分ける形でもう一つの回廊が配置されていたようである。「ベトザダ」とは「恵みの家」という意味であり、篤志家が建てたであろうこれらの回廊は、病人の長期滞在病棟として用いられていた。そしてこの池は定期的に鉱泉が湧きだす間欠泉であった。普段は鈍い色を光らせる静かな水面が、鉱泉の湧きだす時に時折揺れるのである。
大勢の病人が、回廊に寝泊まりしながらその時を待っていた。その理由については巻末(5:3b-4)に記載されている(「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」)。この部分は、写本によって記載のあるものとないものがある。16世紀にグーテンベルクが印刷機を発明するまでは、聖書は修道院などで丁寧に書き写されていた。美しい字で、一言一句誤りのないようにと書き写されていたが、分かりにくい表現などがある場合、このように説明が補足されることがあったようである。
「三十八年も病気で苦しんでいる人」(5節)も、回廊に住み着き、水面が動くのを来る日も来る日も待っていた一人である。そこに主イエスが来られた。神の愛が「失われた一人」に注がれていることが分かる。「良くなりたいか」(6節)と語りかける主イエスに対し、この病人は素直に「はい、良くなりたいのです」と言うのではなく、誰も自分を水の中に運んでくれないという不幸な境遇を嘆いた。不幸の原因を周りのせい・境遇のせいにして、自らの身を儚んでいる姿が見える。このベトザダの池と回廊は「社会の縮図」であるかのようである。病人たちが身を横たえる場所は或る意味で「競争社会」である。「水が動く」のは限られたタイミングでしかない。その時、我先にと飛び出して水に入ることができるのは、多少なりとも症状の軽い者であろう。彼らは他の人々を突き飛ばしてでも、水の中に駆けだしていく。病人たちは一緒に回廊に寝泊まりしていても、実はお互いは「競争愛いて」であり、一人一人は孤独な存在だったことであろう。「三十八年も病気で苦しんでいる人」は、「良くなりたい」と思っていたのに次第に望みを失い、周囲の人々への不信感を募らせていった。我々も彼らと同じように競争社会に生きている。厳しい社会の中、ストレスで心病み、人生に希望を失っていく。現代社会もこの「ベトザダの池」周辺と同じである。
肉体だけではなく心も病んでいる病人たちは、自分の力では回復の見込みを持つことができず、絶望の中にいた。心のどこかには「良くなりたい」という思いが残っていたであろう。まさにそのような中に主イエスが来られた。そこでおこる癒しは「神の賜物」に他ならない。主イエスが一人一人を顧みる愛により、まず一人一人の「魂」が癒されていく。それが、この物語の主題である。神に愛されていることを知り、神に信頼する信仰を体験することによって心は癒され、絶望が希望に変えられていく。
主イエスは病み疲れたこの人に近づき、目を注がれた。主イエスは何故「良くなりたいか」という当り前の質問をしたのであろうか。前述のように、この人は素直に「良くなりたいです」と答えなかった。そのような願いも心から消えかかっていたのであろう。そこで主イエスは、この人の中に「良くなりたい」という願いをかき立てられた。厳しい社会の中で「自分はだめだ」と絶望し、またそれを運命や境遇のせいにするなら、我々の中に「救い」は起こらない。「救われたい」「健やかになりたい」という強い願いがまずなければならない。主イエスはそのことをこの人に求められたのである。
寝そべったまま起き上がろうとしなかったこの人に、主イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)と声を掛けられた。「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」(9節)。この人は主イエスの言葉に応えて歩き出したのである。主イエスの言葉と愛が、この人を立ち上がらせた。主イエスの言葉を信じて従い、行動する時、そこに主イエスの愛が働いて、人は健やかに生きるようになる。主イエスがいつも一緒にいてくださることを知った時、「誰も助けてくれない、顧みてくれない」と人のせいにしたり愚痴ったりしなくても、自分の足で立つことができるようになるのである。我々はこの競争社会の中で問題を抱え、心を失い、立ち上がれないような痛みに直面して苦しむ。そこでなお「頑張りなさい」と言われ、また「自分で頑張ろう」とするなら、なおさら心が病んでいく。それは肉体の病にもつながっていくという現実がある。「誰でも疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい」という主イエスの言葉を聞くことのできる人は幸いである。主イエスの言葉を聞いて祈り、委ねていくとき、人は神の愛を知り、神に自分を委ねて解放されていく。この世に生きる限り、重荷を背負っていない人間はいない。いずれかの時に打ちのめされ、心が萎え、立ち上がれなくなる。その時、主イエスはその人に目を留めてくださる。そして、祈りのうちに神の愛による癒しが始まっていくのである。自分ではもはや立ち上がれない「失われた者」に近づき、声をかけ、何とかして救おうとされる、それがイエス・キリストであり、父なる神の御心である。主イエスに出会うことで、我々を顧み捉えようとされる神の愛を知ることができる。その愛を知ることこそ、信仰の始まりなのである。