ヨハネによる福音書5:31-47
本日の箇所は、主イエスが「父から遣わされた者」としてのご自身を懸命に証ししている場面である。既に学んできたように、安息日に病人を癒すことによって「律法を破った」主イエスに対し、ユダヤ人たちは憤った。更に、父なる神とご自身を同一の存在として語られる主イエスは、ユダヤ人たちにとって「神を冒涜する者」「死罪に値する者」と見なされるようになっていった。彼らにとって「創造者である神」と「被造物である人間」は全く別の存在である。それにも関わらず自身を「神と等しい者」として人間が語ることは、神に対しての冒涜行為と見なされるのである。
ユダヤ人たちの激しい抗議に対して主イエスは、本日の箇所において「父なる神とご自身の関係」について語られた。「ヨハネによる福音書」が記されたと考えられる、いわゆる「ヨハネ教団」も常に「イエスは本当に神の子なのか」という疑念にさらされていたのであろう。そのような問いに、福音書は主イエスの言葉をもって応えようとしたのである。「ヨハネによる福音書」に登場する「ユダヤ人」とは、主イエスを信じない「この世の人々」を意味する。「本当にイエスは神のもとから来た救い主なのか、神の子なのか」という問いは、当時の教会にも現代の教会にも向けられている。日本では「人間が神や仏になる」という発想のある宗教は珍しくない。靖国神社も戦死者を「英霊」として崇め奉っている。しかしそのような日本においても、「イエスは神の子である」ということが簡単に受け入れられるかといえば、そうではないという事実がある。主イエスを「神と等しい方」とせず、むしろ「預言者」「宗教的に素晴らしい聖人」とするほうが受け入れられるのではないかと主張する人々もいる。
では、聖書は何をもって「主イエスが神のもとから来た、神と等しい方である」ということを証言するのであろうか。本日の箇所から、いくつか抽出することが可能である。
第一に、「神ご自身」がそのことを証言される(32節)。主イエスのことを証しする「別におられる」方は、同時に「聖霊」であるとも言える(cf., ヨハネ14:16-17)。我々が主イエスを「神の子」であると信じるようになるのは、自分自身の探究の結果ではなく、聖霊の導きのゆえに他ならないのである。
第二に、「主イエスご自身が行ったわざ」そのものが、「主イエスが神から来た者である」ことを証言する(36節)。バプテスマのヨハネの証しとわざは、神の御心を指し示す光の一つではあったが、今や主イエスご自身のわざによって、神の御心とご計画が余すところなく完全にあらわされた。聖書において示される主イエスのわざと言葉、十字架の死、そのご生涯のすべてを通して、我々は主イエスがどのような方であるか知ることができる。聖書を通して示される主イエスのわざは、人を裁くものではなく、人を永遠の命に生かす愛のわざである。それを知る者は、主イエスが「神の子」であるということもまた知るようになる。
第三に、「聖書の言葉」が「主イエスが神から来た者である」ことを証言する(39節)。ここで言われている「聖書」は『旧約聖書』を指している。すなわち、『旧約聖書』は主イエスのことを預言しているのであり、反対に言えば『旧約聖書』における預言が主イエスにおいて成就したのである。しかし、主イエスを証しする神の言葉である『旧約聖書』を通して神が語られることを心に留めようとしない者は、主イエスを信じない(38節)。
第四に、「主イエスが人からの誉れを受けない生き方をしていること」(41節)そのものが、「主イエスが神から来た者である」ことを証言する。主イエスはこの世の栄誉や評判を期待されず、ただ父なる神の誉れと栄光のみを求めてその御心に従われた。主イエスのご生涯は徹底して神の御旨に服従するものであった(cf., フィリピ2:6-8)。
本来、これらの証しを受けて「主イエスが神から来られた方であること」「主イエスが神と等しい方であること」を心開いて受け入れるはずの人々がそのようにしないのは、「あなたたちの内には神への愛がない」からであると主イエスは言われた(42節)。主イエスは「律法の要」は「神への愛」であると説かれたが(マタイ22:37-38)、ユダヤ人たちは「律法を厳格に守ること」に熱心でも、そこに「神への愛」がないので、主イエスのことが分からないというのである。また、ユダヤ人たちは熱心に「聖書を研究している」(39節)が、その動機が「神への愛」ではなく「自分の誉れを求める」思いであるがゆえに、自己欺瞞に陥った。このことは、聖書を学ぶ我々もまた注意しなければならない。「自分の誉れ」のために聖書を読むのではなく、聖書を読むことによって神の愛を知り、神の愛に養われることを目指すべきである。
第五に、「モーセ」(45―47節)が「主イエスが神から来た者である」ことを証言する。「モーセの書いたことを信じる」(47節)とは、「律法を信じる」ということである。「律法を大事にしている」と言いながらも、律法を通して示された神の真の御心に心を開いていない者は、主イエスに心を開くことができない。
このように、主イエスが「神から来た者」「メシア」「神の子」であるということは、様々な形で証言されている。しかし、「神の愛」が分からない時、我々はそれを信じることができない。「主イエスは神と等しい存在である」とは、主イエスが「半分は神、半分は人」ということではない。「完全に神である」のと同時に「完全に人である」ということが、主イエスにおいて実現している。初代教会においては「主イエスは神から来た者である」「主イエスは神の子である」ということを証言するものの一つとして、「主イエスを死者の中から復活させた神」の証言というものを挙げるようになった(cf., ローマ1:2-4)。神の愛の内に生きられたにも関わらず、人によって十字架につけられた主イエスを神は復活させられた。そのことにより、我々は「主イエスが神の子である」と信じるようにされた。初代教会のそのような信仰と宣教があったということを、この箇所を読む際に併せておぼえておきたい。