ヨハネ6章1-15節「命のパンを知るために」…その2
総合テーマ キリストに何を期待すべきか?
黙想1・2から導かれる「メッセージとチャレンジ」
☆黙想のポイント1
・今回主イエスが行われたしるしは主イエスがどのような救い主だということを私たちに伝えているでしょうか。
★黙想1から導かれるメッセージとチャレンジ
他の弟子たちは自分たちが持っているものでは不十分だと結論付けました。しかし、奇跡は少年が持っていたものをそのまま主イエスに信頼して委ねたことによって起きました。しかもそれは少年と周りの者たちとが期待していた以上の神の御業だったことでしょう。一番肝心だったのは自分たちにどれだけの力量があるかを判断することではなく、主イエスの御業に期待し、自分が今持ち合わせているものを主イエスのために惜しまずに差出せるかどうかだということが示されます。
主イエスは今現在、私たちが持ち合わせている賜物を豊かに用いて下さる救い主です。また、どんな人(今回の箇所では大人ではなく子ども)の賜物も用いて下さる救い主です。
神に何かを願い求める前に、自分がすでに与えられているものに目を向け、感謝し、その利用方法を再検討して見ましょう。それは主イエスが他の人たちのために少年の賜物を用いられたように、他の人の益のために用いることも含まれています。私たちが本当に必要としているものは必ずしも新たなものではなく、今あるものを賢く主イエスと隣人のために用いる知恵なのかも知れません。今あなたにできるこの御言葉への応答とは何でしょうか。
ヤコブ書1章5節「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」
☆黙想のポイント2
・主イエスが山に退かれた時の気持ちと祈られた内容を黙想しましょう。
★黙想2導かれるメッセージとチャレンジ
主イエスは度々奇跡や癒しを行った後で祈るために静かな場所を求めて出て行かれました。
神の御業を実践し続けるためには肉体的には疲れを癒し、霊的には祈りを通して充電する時が主イエスにとっていつも不可欠であったことが示されます。
マルコ福音書1章35節でも「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。これは安息日の礼拝後にペテロの姑を癒し、夕方から遅くまで次々に訪れる病人を癒された後のこととして語られています。
大事な仕事やクリスチャンとしての働きを何かやり終えた時こそ、静まって御言葉に耳を傾け、祈って霊的な休みと充電が必要なのではないでしょうか。また、主イエスは今回の人々の反応を通して宣教を開始される前に荒野で悪魔の試みを受けられた時に導かれた結論、つまり人々に仕え、人々の必要をただ満たすだけでは本当の解決にならず、また人々を神に立ち返らせることはできないことを改めて実感したのではないでしょうか。そして神から与えられた使命の大切さをもう一度確信しながら神の御心の実現のために十字架の道を歩み続けることを決意されたことでしょう。
私たちも主イエスのようにこの多忙な世の中で神との静聴の時を十分に持ちましょう。この機会に一度毎日の祈りと聖書通読のスケジュールを見直してみてはいかがでしょうか。