1/24日ヨハネ6章1-15節 「命のパンを知るために」
総合テーマ キリストに何を期待すべきか?
黙想のポイント1
・今回主イエスが行われたしるしは主イエスがどのような救い主だということを私たちに伝えているでしょうか。
黙想のポイント2
・主イエスが山に退かれた時の気持ちと祈られた内容を黙想しましょう。
★後日、黙想1・2から導かれる「メッセージとチャレンジ」を掲載することにいたします。
・この間に黙想や豊かな分かち合いの時を持って下さい。
前回から今回の間にあった第5章の出来事…
◆ベトザタの池で病人をいやす
◆御子の権威
◆イエスについての証し
◆五千人に食べ物を与える
6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
6:2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
>>>ここに今回の物語の場面設定が説明されています。ガリラヤ湖、またの名をティベリアス湖と呼んでいた湖の向こう岸にイエスの一行は移動したと説明されています。そこから山に登ったという表現からその場所がどこかを検討すると、ガリラヤ湖の右側中央付近ではないかと考えられています。有名な山上の説教をしたカペナウム近辺のなだらかな丘とは別の場所です。
6:4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
>>>もう一つ注目して置きたい情報は、過越しの祭りが近づいていたということです。酵母を入れないパンと子羊の肉を食べながらエジプトから奴隷であったイスラエルの民を導き出された神の象徴的な救いの出来事とそれに続く荒野でのマナという天からのパンによって40年間イスラエルの民が神に養われた出来事を記念する行事です。これらが今回の場面と重なり合うのです。
6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6:6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
>>>1デナリオン=一日の日当=1万円(仮の額)➡すると200デナリオンは単純計算で200万円となります。男だけでも5千人なので仮に女性と子どもを含むと1万人いたとすれば1人当たり200円と言う計算です。主イエスがフィリポに尋ねたのは、弟子たちの中では計算が得意だったのでしょうか、これをすぐさま計算してイエスに伝えました。言うまでもなく、イエスの一行には200万円もの大金の持ち合わせは到底なかったと考えられます。
>>>この会話の少しちぐはぐしたところは、主イエスはどこに行けばという食料を調達に行くべき場所を弟子たちに尋ねられたのに対して、直接聞かれたフィリポは必要となる予算について答え、パンを買いに行く以前の金銭問題があることを答えます。次のアンデレの発言もその点同じでした。
6:8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
>>>ダメ押しのようにアンデレも近くにいた少年が持っていた5つのパンと2匹の魚を示し、何人かの人々が持ち合わせている食料だけではとてもこの大人数に分け与えるには十分ではなさそうだということを伝えます。これらの二つの弟子たちの言葉から、ここに集まった群衆全員に与えることができる一回分の食事代も人々の食料の持ち合わせも十分ではないことが語られています。
6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
>>>やがて過越しの祭りの時に弟子たちと行った主の晩餐を連想させるような主イエスの感謝の祈りの動作がここでもなされます。
6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
>>>この箇所が示していることは、これが正真正銘主イエスが行われた奇跡であり、主イエスによって群衆が満腹したばかりでなく、有り余るほどの祝福が与えられたことが語られています。
6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
6:15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
>>>一方、主イエスが救い主であることを現すはずのしるしを理解しない群衆が主イエスを王にすべく扇動しようとし出します。そのことを察知した主イエスはひとりで山に退かれます。どのような思いで何を祈られたのでしょうか。