イザヤ書6:1~13 「イザヤを遣わす神様」
総合テーマ 神のみ言葉の確かさと力
・今月のみことばの学びの視点…その1 私たちが目指すことができる神の国の素晴らしさ
・今月のみことばの学びの視点…その2 神が導いておられる礼拝とは
◆課題(クイズ) 御座の周りを飛び交うセラフィムには6つの翼がありました。その翼は何のためにあるのでしょうか。…ヒント、飛ぶ以外に聖書にはどんな役割があると述べているか。…それが意味することとは?
◆黙想のポイント 1.イザヤが見た神殿=礼拝所はどれほどすごいところなのか想像してみましょう。
*9節以下の箇所は教会学校などで自由に意見交換していただく箇所として今回は言及せずに残して置きます。黙想のポイントは次の通りです…
2.イザヤが語るように言われた9~10節の宣教の内容は私たちが知る福音と違っています。 それは何を意味するのでしょうか?あなただったら、このように語ることができるでしょうか。
3.11節で「主よいつまででしょうか。」とイザヤは問います。どうして、こう問うのでしょうか。 それに対する答えもよくわかりません。どうしてこう答えたのでしょうか。特に最後で唐突に出てくる切り株=聖なる種子とは何を意味するでしょうか。
◆聖書箇所…イザヤの召命 6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。 6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」 6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。 6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」 6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」 6:11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」 6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。 6:13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。
今月から学ぶイザヤ書の記者イザヤはBC700年前後、南王国ユダの預言者として活躍しました。新約聖書にも多く引用されるイザヤの預言を通して、今月は神が私たちに与えようとされている天の神の御言葉の確かさと御国の礼拝の素晴らしさについてご一緒に御言葉に聞いていきましょう。さて、今回の箇所にはセラフィムという主の御座近くで翼を与えられ、飛び交いながら礼拝を捧げることが赦された特別な天使のような存在者が登場します。そのセラフィムに供えられていた6つの翼の役割を黙想すると、あることが見えて来ます。翼は対になっており、2つは飛ぶための翼でしたが、後の4つはいわば上半身と下半身を隠すために覆うという役割があることが語られています。これは何を意味するのでしょうか。そのヒントはセラフィムの発した3節の賛美の言葉の中にあります。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」つまり神の素晴らしさを賛美として表現する時、1に聖なるお方、2に聖なるお方、3に聖なるお方と言わざるを得ない主の聖さが満ち溢れているということです。そしてその発する栄光は地上の隅々まで届くほどの凄まじいものだということです。御座の近くで飛び交うセラフィムはそれこそ主の栄光をまともに受けることができず、翼を与えられ、体をその強過ぎる主の栄光から守りながら飛ばなければならないことが表現されているようです。それほどの栄光を帯びた存在、それが御座におられる主なる神の子イエス・キリストだと、ここで表現されていると考えられます。次にセラフィムが発した賛美の影響力に目を向けたいと思います。その賛美の声は神殿全体を揺り動かし、煙が立ち込めるほどの力があったことが表現されています。なんと凄まじい力のこもった賛美の言葉でしょうか。天の御国における礼拝の賛美のすごさが伝わってきます。しかも、もうひとつの表現にも目を向けたいと思います。1節で主の「衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた」とあります。これはつまり神殿内の礼拝所は、どこであっても主の臨在が真近にあることが表現されているのではないでしょうか。天の御国の礼拝とは主の臨在に圧倒され、主の聖よさに圧倒され、賛美に圧倒される。そのようなとてつもないすごさを持つ礼拝だということです。神は私たちをやがてそのような礼拝の一員となるようにと招いて下さっているのです。なんと恐れ多いことでしょうか。
事実、イザヤはこの光景を垣間見ただけで感動するどころか、自分がいかに相応しくないかを理解しています。天の御国における礼拝の賛美の言葉の力を目の当たりにして、これまで自分が口にして来た賛美の言葉との隔たりに絶望さえしたのです。自分など、到底神の御前に参列することなどできない罪深い存在であることを自覚したイザヤは死を覚悟したほどだったのです。5節のイザヤの言葉がそれを物語っています。しかし、これは神の側ではすでに備えがありました。どんな人の罪も赦し、清めることのできる祭壇が礼拝所にありました。その祭壇からセラフィムは火鋏で炭火を取り、イザヤの唇へと当てました。イザヤはさぞ恐ろしかったことでしょう。拷問まがいのことがここで起きるのですが、イザヤは大けがをするどころか、それによって罪の赦しと清めを体験することになります。それまでは自分の罪に悩み、絶望さえ感じていたイザヤでしたが、このことを通して後ほど言葉にしているように、神にもっと用いられたいという献身の思いへと導かれています。それが真の礼拝の力だと示されます。そのためにはただ一つ重要なことがあります。それは神が差し出す罪の赦しを象徴する炭火=主イエス・キリストのあながいの福音を悔い改めの心と勇気と信仰を持って受け止めるということです。イザヤはこのようにして神に用いられる預言者として活躍を始めていくのです。これはイザヤだけに与えられた幻ではなく、今日の私たちにも当てはまるものとして語られているとするならば、私たちもやがて参列することが赦されている天の御国における礼拝を目指し、日々の自分の口から出る言葉を正して歩みたいと思わされます。
…ここからは続編になります… イザヤ書6章9~13節 主に献身し、主から遣わされて預言者としての働きを担う意気込みに満ちていたイザヤでしたが、人々に語るように託された言葉は予想外のものだったと考えられます。普通、私たちがイメージする説教の言葉というのは人を励まし、生きる元気を与えるような言葉ではないでしょうか。ところが神が託された言葉はそれとは正反対のものでした。それどころか、これをまともに伝えたのでは、人々からどんな迫害を受けるかわからないようなかなりきつい言葉でした。9~10節の言葉を現代風に言い直すならば、「みなさん、これから語る神のみ告げを聞きなさい。しかし、あなたがたは到底理解できないでしょう。しっかりと集中して下さい。しかし、どうせ悟ることはできないでしょう。」「神は言われる。この民は神に対して頑なで、神の語る言葉には耳を傾けず。神の言葉を本気で求めようとも、聞こうともしないので、神の御心を理解するに至ることはなく、悔い改めて救われることもありません。」という風な内容になるのです。これは極めて上から目線といいましょうか、なんとも人をばかにしたような内容になっているのです。これから神に仕えるぞと息巻いていたイザヤだったかも知れませんが、神の僕として神が語るように命じられる言葉をそのまま忠実に伝えなければならない預言者の使命というのは、実はもっと厳しいものなのだとイザヤは知ることになるのです。 これに対し、11節でイザヤは「それはいつまででしょうか」と質問しています。このように神に背を向け続けるイスラエルの民の状態がいつまで続くのかという意味の質問なのか、自分はいつまでこのように語り続けなければならないのかという意味の質問なのか、それは定かではありませんが、この質問に対して神から住民が滅ぼされてしまうまで続くのだという厳しい返事がきます。12節ではさらに民が大勢異国の地に連れ去られてしまうことや国の中心的な都市が廃墟と化すことが語られます。もう聞きたくなくなるような預言が続きますが、神はさらに深刻なことをイザヤに告げます。それは、一連の出来事でイスラエルは十分の一以下の住民に減るが、その人々もやがてほとんど戦火のために追われてしまうことになるというのです。もし、私なら気がめいってしまうような内容です。それでもイザヤはこの重たい使命を担っていくことになります。 ただし、13節の後半にあるように、最後の最後で主はイザヤに希望の言葉を渡されます。「切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である」という言葉です。テレビンの木や樫の木は非常に頑丈で背も高く、幅も太く育つ大木になる木です。その大木は無残に切り株だけになるものの、切り株から枝が生え、そこから次の世代を担う種子が出現するとの希望で預言は終わるのです。 神の託宣は、一見呪いのような言葉ですが、本質はその逆ではないかと思わされます。本気で神に立ち返ってほしいとの神の明確な意志。実際に民に待ち受ける厳しい現実への覚悟。それでも神は完全に民を見捨てることは決してせず、将来に希望を残して下さるとのメッセージなのです。そして最後に登場する「聖なる種子」とはどんな希望か…それは皆さまのご想像におまかせします。