イザヤ書1:10~20「論じ合おうではないか」
総合テーマ 神のみ言葉の確かさと力
・今月のみことばの学びの視点…その1 私たちが目指すことができる神の国の素晴らしさ
・今月のみことばの学びの視点…その2 神が導いておられる礼拝とは
◆黙想のポイント
1. 神が滅ぼすことを決断したほどの町、ソドムとゴモラ。この町の悪に匹敵すると指摘されたイスラエル。皮肉たっぷりに、しかし、神からの教え(10節)として耳を傾けるようにと呼び掛け続けられる忍耐と憐れみと救いの神。…その神が18節で何を論じ合おうと言われているのでしょうか。
ヒント)神には何をどれだけ実現する力があるお方だと主張されているのでしょうか。そこから導き出される礼拝における必要不可欠の信仰、礼拝スピリットについて再考して見ましょう。
◆聖書箇所…イザヤの活動期間740~700年頃まで(その間に 北王国イスラエル滅亡722年)
1:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ(790-738,)、ヨタム(750-731)、アハズ(731-715)、ヒゼキヤ(715-686)の治世のことである。
1:10 ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。
1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を
1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
1:18 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。
1:19 お前たちが進んで従うなら/大地の実りを食べることができる。
1:20 かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。
◆かつて神に滅ぼされた古代都市がありました。ソドムとゴモラです。その呪われた反逆の町とその住人になぞらえて、イスラエルはそのような存在になり下がったとイザヤを通して神は語られます。もはやイスラエルで行われる一切の偽りの礼拝を嫌うとの神の言葉、いかなる犠牲も祈りも神は受け入れないとの非情な神の言葉が続きます。もうこれ以上このような空虚な礼拝に神は耐えられないというのです。しかしながら、かつてソドムとゴモラを一瞬にして情け容赦なく滅ぼした時とは今回は明らかに違います。10節には「神の教えに耳を傾けよ。」とあり、「神の裁きを聞け」とか、「神の警告を聞け」というのとは明らかに違い、その背後にある神の真の意図が見え隠れしています。イスラエルを過去に神に滅ぼされた都市同等に名指ししながらも、イスラエルに対する神の忍耐と憐れみが伝わって来ます。また、ソドムとゴモラは神と論じる間もなく滅ぼされましたが、イスラエルに対して神は18節で、論じ合おうではないか。」と対話に応じて下さる姿勢が見て取れます。本来なら、一切の弁解ができないはずのイスラエルに対して神が示すこの態度にこそ、私たちは注目する必要があるのではないでしょうか。神が本当に取り戻してほしい礼拝、そして礼拝スピリットとは何なのかが問われています。
15節後半から17節に「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。」との具体的な悔い改めの内容が示されています。しかし、この内容が私たちに向けられた場合に、果たして受け入れられる内容でしょうか。この内容は一人の人間、あるいは一教会にできる限界を越えていて、とても解決できないもっと大きな社会全体の問題だと思われます。そして、これまで歴史上常に存在し続けて来た問題だとも言えます。また、自分の手が血まみれになっているので洗うようにと言われても、心の底から本当にそう思える人はどれだけいるのでしょうか。そう簡単に自覚することも、解決することもできそうにない問題だと言えます。従ってこのように悔い改めを促されると、ほとんどの人は神に反論したくなるのではないでしょうか。「神様、そうは言っても…」と。神への反論、それはきっとイザヤの時代も、イエス・キリストの時代も、現代でも同じなのではないでしょうか。そして、そのような私たちに対する神の応答も同じだと考えられます。
イスラエルの民や私たちのその思いを見透かすかのようにして18節にあるように「論じ合おうではないか」との神の応答が始まります。そして18節後半「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。」との御言葉を私たちがどう受け止めるかが問われているようです。ここで神が語っておられるメッセージこそ、あらゆる時代の礼拝に必要不可欠な信仰だと言うことを受け止めていきたいと願わされます。その礼拝信仰とはどのようなものか黙想し、教会学校などで分かち合ってみて下さい。
…続きは次回に致します。