ヨハネによる福音書10:22-42
本日の箇所は主イエスとユダヤ人の宗教指導者たちにおけるいわゆる論争の最後の部分である。
「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」(22節)。この由来は紀元前164年にさかのぼる。シリア王アンティオコス・エピファネスはユダヤ人圧迫の一環として、神殿に異教の神を祀った。ことさら、ユダヤ人の嫌う「豚」の像を置いたという。そこでユダのマカベアスが一族を率いて立ち上がり闘いを挑んだ。彼らは異教の像を一掃し、新しい祭壇を建て、宮を清めた。その次第は旧約聖書続編の「マカベヤ書」に記されている。このことを記念し、12月中旬に八日間にわたり神殿を灯火で明るく照らす祭が行われた。これは「光の祭」と呼ばれるものであり、ローマ皇帝付の歴史家であったヨセフスによる『ユダヤ古代史』などを通しても、これらの聖書の背景を知ることができる。
「イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた」(23節)。「ソロモンの回廊」については「使徒言行録」2章に詳しい。「異邦人の庭」の東側にある、屋根付きの回廊である。エルサレム神殿はダビデが構想しソロモンが建築にあたった。しかしその後何度も破壊された。主イエスの生きられた時代において、この「ソロモンの回廊」は昔のままに残されたものだと言い伝えられていたため「ソロモンの回廊」と呼ばれていたのである。
御自身を取り囲み詰問するユダヤ人たちに対し、主イエスは再び「羊と羊飼い」の関係を語られた。その中で主イエスは「わたしと父は一つである」(30節)と言われたが、これは当時のユダヤ社会においては非常に大胆な発言であると言える。「主イエスと父なる神は一つである」、これは、キリスト教信仰における譲れない要である。キリスト教の歴史においては、しばしば「イエスが神であることは信じられない」という人々が現われた。「イエス・キリストとは誰か」「神か、人か」という論争を通して、キリスト教は「イエス・キリストは神である」という信仰を告白するようになっていったのである。新約聖書もまたそうした信仰に基づいて編集されている。
神は「言」であり「声」である。「像」ではない。それをヨハネは福音書において表現した。神である「言」が「肉」、すなわち「人」となった。それが主イエスであり、主イエスは「神の言」そのものなのである。主イエスに聴く者は神に聴く者である。それが聖書の信仰である。
主イエスは「人となられた神」であり、神をご自身の身をもってあらわされた方である。それが「神の独り子」という意味である。「独り子」とは、「大勢いる兄弟の内の一人」ではなく、「独特な存在」「父なる神との独特な関係にある方」という意味を指す。我々が信じて「神の子とされる」ということとは全く意味が違うのである。
「父なる神」と「子なるキリスト」はそれぞれの固有性を持った存在であるが、しかし「神である」ということにおいて「ひとつ」である。そこに「聖霊」との関係が加わり、いわゆる「三位一体の神」に関する教理が形成されている。「父」「子」「聖霊」がそれぞれ固有の位格でありつつ同時に「神」として一体であるということを説明するのは非常に難しい。「父」「子」「聖霊」はそれぞれ我々に関わる関わり方が違う。しかしそれは同時に「一」としての神である。このことを論理的に説明するのは無理であるが、我々においては信仰において真理なのである。
「わたしと父とは一つである」(30節)、この言葉に最も躓いたのは、当時のユダヤの宗教家たちであった。彼らにとって「神」は唯一であり人間を超えた存在だからである。それゆえ、「人間が神である」ということは決して許されない「神への冒涜」に他ならない(cf., レビ24:16)。神と人間とは「創造主」「被造物」として超えることのできない決定的な一線によって隔てられた存在なのである。
ユダヤ人指導者たちが主イエスを亡き者にしようとした大きな原因は、大きく以下のとおり考えられる。①主イエスがご自身を神と等しい者として語られたためである。主イエスは「神の冒涜者」であった。②来たるべきメシアは現在のローマ支配から解放してくれる「政治的な王」であると期待していたのに、主イエスがそのような「力」を持つ神からのメシアであるとは信じられなかったためである。③主イエスが神の律法に違反しているからである。彼らにとって主イエスに躓く原因は数多くあった。
③に関して言えば、主イエスは律法を「否定」されたのではない(cf., マタイ5:17)。律法はそれとして神の与えて下さった大切なものである。ユダヤ人たちが律法を大事にするのは本来良いことであった。しかし彼らは常に律法を通して生ける神の御心を尋ね求めるのではなく、律法を「固定化」した。「これさえ守っていれば神の目に義とされる」というように、律法は「人間が努力して守るもの」と理解された。更に、固定された条文として「他者を裁くためのもの」とされていった。主イエスは律法を「成就」するために来られた。本来、律法は人が誇ったり裁いたりするためのものではなく、人を生かし祝福するために神が備えてくださったものである。
本日の箇所には「善い業」という言葉が出てくる(32節、33節)。これは「父の業」(37節)、「その業」(38節)と同じ意味である。この「善い」とは、「祝福する」「恵み深い」という意味のヘブライ語「トーブ」に由来する。我々を祝福し、愛し生かそうとされること、これこそ神の「善い業」なのである。そして主イエスの「業」もそれと同一のものである。そしてそのような神の祝福に与ることこそ、我々にとっての「救い」であり、我々が生きて行く人生と信仰の基盤である。我々は主イエスの「業」を通して父なる神の「善い業」に与り、そこで「永遠の命」に与っていく者なのである。
「永遠の命」、これがこの箇所におけるもう一つの重要なテーマである。「羊」は「羊飼い」である主イエスの声に心を開き、その言葉に信頼して従う。それによって主イエスとの交わりに生きるようにされる。それこそ「永遠の命に生きる」ことであり、「神の祝福に生きる」ということである。主イエスを信じれば平穏無事で悩み苦しみのない人生が送れるということではない。「羊飼い」に従う「羊」たちは困難があり危険があり脅かされる荒れ野の中に生きる。しかしそのような中でも「羊飼い」が共にいてくださるということ、主イエスの御手にとらえられているということこそ、「神の祝福」「永遠の命」なのである。
そのような「永遠の命」は、死んでから始まる命ではなく、今、既に始まっている命である。今、主イエスの声を聞き、信じて従い、主イエスのものとされている者にとって、主イエスがいつも共にいてくださるということが「祝福」「永遠の命」「善き方である神の恵み」である。それは努力して獲得するものではなく、祈り求め感謝して受けるべき「賜物」である。それは「この世だけのもの」「死後だけのもの」ではない。現在も、また死を超えてなお、神との交わりと愛は限りなく続くのである。