ヨハネによる福音書11:1-16
エルサレムの郊外(cf., ヨハネ11:18)にある「ベタニア」という村にマリアとマルタ、そしてその弟と思われるラザロがいた(1節)。主イエスが彼らの家をしばしば訪れて憩われたということが他の箇所の記述からも分かる(ルカ10:38-42)。主イエスはこの時、「再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された」(10:40)とあるが、ここもペレアの「ベタニア」という地名であった(ヨハネ1:28、cf., 『新共同訳聖書』巻末地図6)。
「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」(2節)と紹介されている(cf., ヨハネ12:1-8ほか)。因みに「ルカによる福音書」(7:36-50)にも女性が主イエスの足に香油を塗る記事が収録されているが、それはこのマリアの出来事とは区別されている。そこでは語られている事柄が違うからである。マタイ、マルコ、ヨハネで語られるのは、主イエスの死が近づいており、マリアがそれを知ってか知らずか香油を注ぐ場面である。主イエスは弟子たちの非難を制し、マリアのこの行為を「葬りの準備」として尊ばれた。ルカの出来事はそのような文脈ではない。
ヨルダンの東岸、ペレアのベタニアに滞在されていた主イエスのところにマルタとマリアは使いを送り、ラザロの病気を知らせた(3節)。後に「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11:21)と彼女たちが嘆いているところから、是非主イエスに来て頂きラザロの病気を癒してほしいという願いと祈りをもって、彼女たちがわざわざ遠くにおられる主イエスに使いを送ったということが分かる。「あなたの愛しておられる者」(3節)とあるが、この「愛する」とは「友情」を意味するギリシャ語で表現されている。主イエスとラザロの間には、親しい交わりによる友情が芽生えていたのである。
それに対し主イエスは「この病気は死で終わるものではない」と言われた(4節)。この箇所は「この病は死に至らず」という『文語訳聖書』における訳のほうが元々の語に忠実である。「ラザロの死は死に向かっていない」「死が最後ではない」というニュアンスがここには込められている。デンマークの哲学者ゼーレン・キェルケゴールの名著『死に至る病』はよく読まれてきた古典である。そこにおいてキェルケゴールは次のように語る。ラザロが死人の中から呼び覚まされたから、「この病は死に至らない」と言われたのではない。よみがえりであり命である主イエスが現にそこにおられるから、「この病は死に至らない」のである。主イエスが現にそこにいてくださり、愛してくださっているという交わりがある限り、その死は終わりではなく、死で終わらない永遠の命があるのである。そのことをヨハネは福音書において繰り返し語っている。
主イエスがそれを受けられ、また主イエスを通してあらわされるところの「神の栄光」(4節)とは何か。「栄光」とは神が崇められ、多くの人が主イエスを信じるようになることである。この場面ではラザロの死と復活を通して、神の栄光があらわされるというのである。ラザロの復活のできごとを通して主イエスはますます死に追いやられていく(ヨハネ11:45-53)。しかし主イエスのその死と復活によって、罪と死からの救いのわざを神があらわしてくださることになる。主イエスによって神が栄光をあらわすとは、そういうことである。
主イエスは彼らを「愛しておられた」(5節)。この「愛する」という語は3節の「愛する」とは異なっており、「神の愛」をあらわす語が用いられている。姉妹たちの愛は、「人と人との愛」である。しかし人間は主イエスとの交わりにおいてこの広く深い「神の愛」によって愛されていることを知ることができるのである。我々の罪深さを赦し、包み、顧みを与えてくださる愛によって、主イエスは我々を愛してくださっている。
しかし主イエスは「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」(6節)。なぜ主イエスはすぐに行動されなかったのであろうか。このところから、確かに主イエスが我々の祈りに応えられる時は我々の願う時と違うということが分かる。我々は主イエスによって何でも祈ることがゆるされており、主イエスは常に祈りに耳を傾けていてくださる。しかし、何に関しても「神の時」があることを我々は知らなければならない。そのことを知りつつ、我々は失望しないで祈るのである。神は必ず、「神の時」に答えをあらわしてくださるからである。そしてその答えが我々の願う通りのものでなかったとしても、その時に我々は神の御心を知り、祈りを聞いてくださる神の臨在を知ることができる。宗教改革者カルヴァンは「神はたとい遅れるとしても決して眠ってはおらず、自分に属している人を忘れてはいない」と語った。そのことを信じ、「神の時」を待って祈ることが大事なのである。
それから主イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言われた(7節)。主イエスの命を狙うユダヤ人たちの存在を案ずる弟子たちに対し、主イエスは「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ」と言われた(9節)。ユダヤの時間は12時間に分けられて捉えられていた。この世の「光」(ヨハネ8:12、9:5ほか)である主イエスが太陽のように光り輝いている限りは、主イエスと共に歩くなら我々もつまずくことはない。しかし「夜歩けば、つまずく」(10節)。「夜」とは「試練の時」であるということができる。試練の中で主イエスを見失ってしまう時、我々はつまずいてしまう。この「つまずく」という語には「倒される」「滅びる」という意味も込められている。しかし、主イエスと共に歩くならば大丈夫なのだと、主イエスは繰り返し語りかけてくださる。
そして続けて「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(11節)と主イエスは言われた。我々と同じ場所に立ち、我々を「友」と呼んでくださる(cf., ヨハネ15:15)主イエスは、我々の慰めである。聖書では「死」を「眠り」と呼ぶ。それは、必ず「起きる」「目覚める」時が来るからである。「復活」のその時、「死」という「眠り」から主イエスが起こしてくださる。その日は必ず来る。