マルコによる福音書14:1-9
主イエスの死は、ますます迫っていた。主イエスを亡き者にしようとする計画は水面下で進行していた(1-2節)。エルサレム入城の後、神殿で人々に語り、策略をもって問答を挑んでくる者達に対し適切に応えてこられた主イエスであったが、その様々な言葉や行為がますます宗教的指導者たちの憎しみを煽っていたのである。時は過越祭の直前であったため、彼らは人前で主イエスを捕らえることをためらった。そして「民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう」(2節)と示し合わせた。しかし、実際には「祭りの後」ではなく「祭りの中」で主イエスは十字架にかけられ殺された。人々の計画を超えた神の計画がそこにあったのである。
主イエスはエルサレム神殿での一日の働きを終え、エルサレムの町を出てベタニアで過ごされた。「重い皮膚病の人シモン」(3節)の家に招かれていたのである。すると、一人の女性が「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(3節)。このような香油は通常少量ずつ用いれば十分なものであるのに、女性はバケツで水を流すようにして全部を主イエスの頭から注いだ。良い香りが部屋中を覆い、滴り落ちる油は無駄に土の床に吸い込まれていったであろう。
そこにいた人は「驚いた」というよりも「憤慨」(4節)し、女性を咎めた。その香油は「300デナリオン以上」(5節)の値がつくほどのものであった。1デナリオンが当時の労働者の一日分の賃金であるといわれるが、そう換算するならば、一人の労働者の年収ほどの値がつく香油を彼女はいっぺんに使ってしまったのである。彼らは「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」(4節)と非難した。このように無駄なことをするくらいなら、香油を売って「貧しい人々に施すことができたのに」(5節)と言うのである。彼らは彼女を公然と非難した。主イエスも「貧しい人々に施すこと」のほうを喜ばれると思ったからである。
しかし、主イエスは思いもよらぬ言葉を発せられた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(6節)。主イエスは彼女の行いを「自分にとって最善のことをしてくれた」と受け止められ、そこに彼女の「主イエスに対する愛」を認められたのである。「主なるあなたの神を愛しなさい」という戒めがあるが、「愛する」というのは「主にとって一番良いと思うことをすること」であり、それは打算や損得勘定を超えた行為に他ならない。他人の目など気にせず、他人と比べたりもしない、ただ「主なる神を愛する行い」として主イエスに向けられた精一杯の献げものは、我々の献げる「礼拝」「献金」「奉仕」につながる。これらもまた神への愛の献げものである。ただ主イエスに対して献げられる精一杯の愛がそこにあるなら、主イエスはそれを「良いこと」としてくださるのである。
主イエスは続けて「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(8節)と彼女の行いを位置付けられた。まさに十字架の死と葬りへの歩みの途上におられる主イエスにとって、彼女の行いはご自身の「死と葬りを指し示し証しする」「主イエスの十字架の愛を証しする」わざだったのである。当の本人はそこまで考えた上でのことではなかったであろう。しかし、心から献げたものを主イエスは「十字架の福音を証しするものである」と言ってくださるのである。我々の「礼拝」も「献金」も「奉仕」も、神への精一杯の献げものであるならば、どんなものであれ「十字架の福音を証しするもの」として主イエスが受けて用いてくださる。
一見愚かに見えるような彼女の行いは、主イエスの十字架の死と共通するものがある。十字架の死ほど愚かで無駄なものはない。主イエスはこの時エルサレムから離れ、他のどこかで働きを続けても良かった。しかし贖いのためにご自身の命を献げようと、主イエスはエルサレムに留まり続けられる。信じない時に、主イエスの十字架は「意味のない愚かなこと」のように思える。十字架の死は神の愚かさのように見えるが、それは我々の考えよりも賢く、信じる者にとっては尊いものである(cf., Ⅰコリント1:18、23-25)。
「はっきり言っておく」(9節)とは、「アーメン」、すなわち重要な宣言をする際に主イエスが発せられた言葉である。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(9節)。「主イエスの十字架の死による贖いの福音」「罪の赦しの福音」が宣べ伝えられる所とは、まさに「教会」である。「教会」で、この女性のしたような行為が続けられていく。精一杯の愛の献げものをもって主に仕え、主を証ししていく場所が「教会」である。しかし我々は、いつの間にか「ただ主イエスへの愛のみに動かされて献げていく」というこの女性のような信仰の姿勢から離れてしまいやすい。常にこの箇所にあるような「献げること」の原点に帰らなければならない。そのために、この女性のエピソードは常に教会の中で繰り返し想い起こされ語られなければならないのである。