マルコによる福音書 1:16-20
主イエスはガリラヤ湖をご自身の最初の活動の場とされた(cf: 新共同訳聖書巻末地図6)。ガリラヤ湖は琴の形をした湖で、南北20_、東西10_ほどの大きさの淡水湖である。日本の湖と比べるならば、琵琶湖の三分の二ほど、十和田湖とちょうど同じくらいの大きさである。ガリラヤ湖は山に囲まれたカルデラ湖であり、当時の人々はそこで魚を獲って生活していた。ヨセフスの編纂した『古代ユダヤ史』によると、当時、ガリラヤ湖では300ほどの漁船が操業していたという。ガリラヤ湖付近に「ベトサイダ」という町があるが、この名は「魚の家」という意味であり、またヨルダン川の河口付近にある「タリカエラ」という町の名は「塩漬けの魚」という意味である。マグダラという町にも魚の加工工場があり、ガリラヤ湖近辺は自然の恵みを豊富に受けていた場所であったことが分かる。しかしそこには同時に自然の脅威も存在する。ガリラヤ湖にはカルデラ湖特有の突風が吹き、漁船はしばしば難船したのである。
主イエスはこのガリラヤ湖のほとりを歩かれ、漁師であるシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを見出された。そして「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)と言われた。主イエスは彼らに「わたしの教えを聞きなさい」「わたしから学びなさい」ではなく、「わたしについて来なさい」と呼びかけられた。そしてこの「人間をとる漁師」とは誤解しやすい言葉であるが、主体はあくまでも「神」である。神から離れている人間を、神は「神の国」へとお招きになり、呼び返そうと願われる。主イエスはこの「神の国への招き」の働きに立たれた。そしてそのために弟子たちを選び出された。選び出された者たちのするべきことは、あくまでもこの主イエスの働きに仕えることであり、自分たちが人間の力で人を獲得することを意味しない。
さて、彼らは主イエスに「すぐに」(18節)従ったと福音書には書かれている。「大人であるペトロたちが、初めて会った主イエスの招きに、すぐに仕事を捨てて従ったというのは、非現実的である。彼らは従う前に、主イエスの福音を何度か聞いていたのではないか。また、仕事を捨てて従う前に、後に残す家族のことを考えたのではないか。主の招きに従うまでに、そうした時間の経過があったと思うのが当然である。しかし、マルコによる福音書はそうした経過を省いて、彼らは主に招かれると『すぐに』従ったと語る。主イエスに従うまでに何回話を聞いたとか、従う前に家族のことを解決したとか、そういうことを全然問題にしない。招きに従ったペトロたちの決断だけを語る。そして、その決断だけが大事なのである。主イエスの教えを十分に理解したか、自分はふさわしい人間か、後のことは心配ないか、等と考えたと思うが、ペトロたちはそういうことをすべて主に委ねて、従ったのである。主イエスには、ペトロたちに絶対的な信頼を持たせる力があった。私たちキリスト者も主イエスを信じ、主に従う決心をしてバプテスマを受けるまでには、当然、それなりの求道期間があり、準備期間があった。しかし、そういうことは問題にされないのである。主の招きに応えて、主に従ったという決断だけが大切なのである。ペトロの新しい人生がこの時に始まったように、私たちの新しい人生も決断した時から始まった」(内藤淳一郎『一日の発見』、キリスト新聞社、2007年、132頁)。我々にとって「招きに応える」ことは「仕事や家族を捨てる」ということを意味しない。むしろ、今まで自分が「これさえあれば大丈夫だ」と思っていたものを捨て、主イエスを拠り所とし、主イエスに自分の生涯を委ねる決断をすることを意味するのである。その時、我々には目標のはっきりした新しい人生への道が開かれる。
主イエスは御自身の働きのために、どのような人々に目を留められたのであろうか。主イエスが呼び集められたのは、才能に恵まれ社会的に影響力のある人々ではなく、「無学な普通の人」(使徒4:13)であった。主イエスは地位や能力などで人を見るのではない。かけがえのない存在として、一人ひとりに目を留めて下さり、その人に最もふさわしい生き方へと招いて下さるのである。例えその人が生涯の病を持っているとしても、その人を大切にし、その病の生涯を通して神のみわざをあらわされるのである。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。・・・それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(Ⅰコリント1:26-29)。