マルコによる福音書 1:21−39
本日取り上げた箇所には「悪霊」というテーマが複数登場する。「悪霊」とは今日あまり使わない概念であり「古代人の感覚、世界観」による概念のように思える。2000年前の人には理解できても、現代を生きる自分たちには関係のないこと、そのように捉えられやすいテーマかも知れない。
「悪霊にとりつかれる」とはどのような状態を指すのであろうか。人間には、この世界には、我々の力では制御できない、我々を越えた悪しき力が存在する。例えば病気なども含め、自分ではどうすることもできない、我々を脅かす悪しき力の存在を、2000年前の人々も感じて生きていたのは事実であろう。
では、現代に生きる我々は、同じように「悪しき力」のために苦しむことはあるのであろうか。「悪しき力」は、今日は乗り越えられたのであろうか。確かに2000年前に比して、「病気」は今や多くの部分を現代医学が解明し、克服しつつある。もはや我々の現代医学の知識や技術をもって解決できないものは少なくなり、現在解決できていないものもやがて解決できるであろうという未来像を、我々はおぼろげに抱いている。確かに我々の住む地は大地震によって翻弄され、津波、原発による想定外の事故が起こり、非常に大きな危機に直面した。 現代の地質学では解明できていない部分は多く残っているものの、やがて人間が制御できるようになるかも知れないと思っているのかも知れない。人間は「原子力」というエネルギーを発見し、それを利用するようになった。人間が開発したエネルギー利用の仕組みであるがゆえに、当然、人間がそれを制御できると考えていたが、それは今や人間の想定を超えて独り歩きし、人間に危機を与えてくる存在となった。しかしそれでも、現代人はそれを「悪しき霊の力」とは考えない。すべて人間が制御し、やがてすべてを制御できるという考え方を持つならば、「悪しき霊の力」などとは、「幼稚な古代の感覚」と捉えられるのであろうか。
聖書は例えば「病気」という事柄に言及する際、そこに「悪霊」の力を見る。しかし、「ひとつの機能障害」としてではなく、「人間そのものを全く苦しめるもの」として「病気」を語っている。
具体的な「病気」ということにとどまらず、我々の生活の場には、「こうありたい」と願うのに、そうあることを許さない、我々を悩ませ、ますます深みに入り込ませるような、人間には制御できない力が存在する。聖書はそのようなところに注目している。パウロは次のように記している。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:18−24)と嘆いている。制御できない罪の力に人間は脅かされ支配されているのではないだろうかという問いかけを、我々は聖書から聞く。
現代人は様々な意味で、科学や医学の力を持って問題を乗り越えているが、現実にそれで平和になったのであろうか。愛は豊かになったのであろうか。世界にいじめや差別はなくなったのであろうか。相変わらず人間の思いや力では解決できない問題があり、我々は「悪霊」としか言いようのないものにとらえられていることを知る。神の御心を知るキリスト者こそ、狂気に駆り立てる悪しき力の存在について、聖書が語るところを知っている。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(エフェソ6:12−13)。
主イエスは弟子たちに「汚れた霊に対する権能」をお授けになって彼らを派遣した(マタイ10:1)。人間の欲望、孤独、不安、根元的に持つ弱さにつけこんで不信仰や狂気に駆り立て、やがて人間を崩壊させる力、解決しない人間の問題、聖書はそれを示している。そして、主イエスは「悪しき霊」を追い出そうとされる。神の支配の中に生きない限り、人間は「悪しき霊」に支配され翻弄され続ける。そのような我々の弱さと苦しみを共にしながら、主イエスは「悪しき霊」と闘って下さるのである。主イエスは我々を愛する味方として苦しみ、罪を担って下さった。そしてそのことによって我々を罪から救いだして下さり、神のもの、神の子どもとして、神の手の中に取り戻して下さった。そのことにより、我々はもはや悪しきものに振り回される存在ではなくなったのである。
「悪霊」というテーマは現代人にはなじまないようにも思えるが、今もなお、どんなに科学が発達し様々な現象が解明されようとも、一人の人の存在を苦しめ、狂気に駆り立てる力は存在する。そして、主イエスによってのみ、我々は「悪霊への恐れと依存」から解き放たれる。信仰の歩みの中から、そのようなことを語っていきたい。