マルコによる福音書 1:9-15
本日の箇所は、主イエスが洗礼を受ける場面から始まっている。ヨハネの授けた洗礼は「罪を悔い改めさせるもの」であった。主イエスは罪のない方であるにもかかわらず、何故ヨハネからこの洗礼を受けたのであろうか。それは、主イエスがこの世に生を受けて以来、全く我々と同じ人間であったことを示す。主イエスは我々と同じ「罪人のひとり」に数えられ、我々と全く同じ者になろうとして下さったのである。我々の罪を共に最後まで担い続けようとされた深い御心がそこにある。
次の場面で主イエスが「サタンの誘惑」に遭われたのも、それと同じ理由のゆえである。信仰の歩みをしようとする時、我々は必ず「我々を神から引き離そうとする誘惑、苦しみ」に遭う。主イエスは「荒れ野」(12節)という厳しい世界で苦しみと誘惑に遭って下さった方である。主イエスは、「神の子」であるが同時に全き「人」として歩まれ、試みの中に生かされている者と共にいる「インマヌエル」の神となって下さった(cf. ヘブライ人への手紙4:14-15)。
本日の箇所には「霊」という言葉が2回出てくる(10、12節)。この箇所から我々は「聖霊」についてどう考えることができるのであろうか。10節には「天が裂けて」「鳩のように」降りる「霊」という表現が用いられている。聖書の語る「天」とは「空」「宇宙」のことではない。「空」も「宇宙」も被造物であるので、これらは「地」に属するものである。「天」とは「被造物を超えた、神のいます場所」のことである。「天」からくる「霊」とはすなわち、「神からやってくる霊」であり、それは人間の側から呪術などを用いて呼び出す「霊」ではない。神からの一方的な働きかけ、導きの中で与えられる「霊」である。「鳩のように」という表現もあるが、キリスト教会においては「鳩」は「聖霊」「平和」を示すモティーフとして用いられている。
主イエスは「霊」が降るのを「御覧になった」(10節)。それは視覚的な意味ではなく、主イエスにおける「内面的な経験、自覚」であった。主イエスは御自身に対する父なる神の働きかけ、御自身と父なる神との内的な関係をこの場面で自覚されたのである。それは、その公生涯の始めにあたり、「聖霊」によって主イエスに与えられた経験であった。
この同じ「聖霊」が我々にも与えられている。「聖霊」は今も我々に働きかけ、語りかけている。我々が聖書を「主イエスの言葉」と受け取れるのは、まさにこの「聖霊」の働きの故である。「聖霊」の働きにより、聖書を通して、我々が神に愛され赦され、神が共にいてくださることが確信できるのである。
14-15節は主イエスが福音を宣べ伝えられたことを報告する。15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は、主イエスの宣教の根幹を指し示すものである。洗礼者ヨハネは主イエスを指差す役割を果たしたが、主イエス御自身は福音をもってご自身を示された。主イエスにおいて、救いの約束が実現したのである。
「神の国」とは「神の愛と真実の中に生きる」ことのできるところであるが、それが「近づいた」とはどのような事情であろうか。それを表現する譬えとして「ロープウェー」を引き合いに出してみよう。ロープウェーのロープは、頂上まで長く続いている。ゴンドラは乗り場に近づいてくる。これは一回限りのことではなく、主イエスの生きられた時代も現代も、ゴンドラは絶えず近づいてくる。ゴンドラは乗り場に近づき、その扉が開く。我々はそれに乗り込めばよい。ゴンドラは「主イエスの支配の中」である。我々はそれに乗り込むだけで、やがて最終的に到来する「神の国」という頂上に導かれていくのである。
「悔い改め」とは「方向転換」を指す言葉である。今までは自分に依り頼んでいたが、それをやめて、神の愛を信頼して生きるようになるという、人生の転換である。「自分が、自分が」という生き方をやめる人生、主イエスと共にある人生を歩き始めるという人生の転換を、「洗礼」はすぐれて表現するものである。