マルコによる福音書 1:1-8
「マルコによる福音書」は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1節)という言葉で始まる。「福音」とは何か。日本語ではどのようなニュアンスを持ち、どのような時に使われる言葉であろうか。端的に言うならば「良い知らせをお伝えする」ということであり、「吉報」などと言い換えられる。例えば、このたびの東日本大震災で行方不明になっていた祖母と孫が数日ぶりで救助された際の報道においても、この「福音」という言葉が使われた。彼らはどのような思いで過ごしておられたことであろう。彼らには「救助隊が必ず助けに来てくれる」という希望の思いがあったかも知れない。やがてやってきた救助隊に助けの声をかけられた時、彼らはどれほど嬉しかったことであろう。この場合、救助隊の助けの声が彼らにとっての「福音」であった。元々は有名な「マラトンの戦い」における勝利の伝令のような、喜ばしいことを伝える手紙などを指す言葉である。「イエス・キリストこそ神の子であり、わたしたちを救うために来られた方です、それを最初からお話ししましょう」というのがマルコのテーマであった。
ここでは「準備をする者」として「洗礼者ヨハネ」が登場する。洗礼者ヨハネはどのような責任を持っているのであろうか。また彼の使命は何であろうか。また我々はどのような点でこの洗礼者ヨハネと接点を持ちうるのであろうか。
我々は洗礼者ヨハネから「キリストが来られるという報せを声高らかに伝える生き方」を学ぶことが出来る。洗礼者ヨハネはキリストを指さしている。グリューネバルト(Matthias Grünewald, 1470/1475年頃‐1528年)という画家が洗礼者ヨハネを描いた絵があるが、洗礼者ヨハネは左上の十字架にかけられたイエス・キリストを指差している。洗礼者ヨハネは「救い主があそこにおられる」と指差す証人であった。洗礼者ヨハネと同様に、先にイエス・キリストを知った者は皆、そのようにするのである。
我々にとって「イエス・キリストが福音である」とはどのような意味であろうか。聖書はどの言葉をとっても「イエス・キリストは福音である」ということを証言している。お互いの愛唱聖句を紹介し合うことなども有益である。
「イエス・キリスト」という表現を説明するならば、「イエス」は「名前」であり、「キリスト」とは「メシヤ」、すなわち「油を注がれた者」を意味する語である。「油を注がれる」とはイスラエルにおいては特に「神から用いられる働き人」「神から選び分かたれた人」「聖別された人」のしるしであった。イスラエルの信仰においては「王も神から用いられる者」であるため、「王」にもこの油注ぎがなされた。また、神と民との間を執り成す「祭司」、神の言葉を民に取り次ぐ「預言者」にも油が注がれた。そしてイエス・キリストこそまことの「王」「祭司」「預言者」である。有名なヘンデルの「メサイヤ」ではイエス・キリストを「主の主、諸王の王」と賛美しているが、イエス・キリストは全てのものの支配者であり、地上の王を超えた王である。また、地上の「祭司」は民の罪のために主に動物の犠牲をささげて神の赦しを請う働きをするが、まことの祭司であるイエス・キリストはご自身が犠牲そのものとなり、神と人との関係をつないで下さった。そして「預言者」は前述のとおり「神の言葉」をとりつぐが、まことの預言者であるイエス・キリストは「神の言葉そのもの」である。
神は我々の救いのためにイエス・キリストを遣わされた。それは突然の出来事ではなく、長い間の準備が積まれた末でのことであると旧約聖書は証ししている。神は救いを成就するためにまずイスラエルを選び、その歴史の中で様々な働き人を立て、神のわざをイスラエルにあらわした。そして預言者を通じて「救い主の到来」を預言させた。イエス・キリストの到来はそれらの預言の成就だったのである。