ルカによる福音書3章3~16 「主に道を整えて」
総合テーマ 実を結ぶ信仰
・今月のみことばの学びの視点…その1
悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、どういう実を結ぶことでしょうか。
・今月のみことばの学びの視点…その2
実を結ぶ信仰とはどのような信仰でしょうか。
◆黙想のポイント
1.群衆と徴税人と兵士に指示した内容の意味を黙想しましょう。
2.聖霊と火によるバプテスマの意味を黙想しましょう。
3:3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
◆バプテスマのヨハネの使命は神に罪を赦していただくために人々に悔い改めのバプテスマを布教することであったことが分かります。別の言い方をすると、罪の赦しを得るためには、悔い改めのバプテスマを私たちは必要としているということです。キリスト教信仰はここから始まると言ってもいいかも知れません。問題は私たちがどう悔い改めるべきなのか、その悔い改めの方法や内容が問われています。以下の節でその内容が少しづつ見えてきます。
3:4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。
◆これはイザヤ書40章3節以降からの引用です。イザヤが預言した荒れ野で叫ぶ者とはバプテスマのヨハネだったとルカは主張します。バプテスマのヨハネの使命は主であるイエス・キリストが切り開こうしている道を事前に民に示すことでした。
3:5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、
◆これまではイスラエル民族ならびに人類とキリストとの間には様々な障害があり、キリストがどういう救い主なのかということにたどり着くことは極めて困難でした。しかし、それまで私たちをキリスト理解から隔てていた山や谷や丘は平になり、見通しがはっきりとし、曲がりくねっていてしかも前進することさえ非常に困難であった劣悪な道も整えられ、キリストにまっすぐに伸びた道に変わることが預言されています。
3:6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
◆神の救いとは主イエス・キリストを指すのでしょう。ただし、ここでは「救いを仰ぎ見る」つまり「神の救いであるキリストを仰ぎ見る」ことが語られているのであって、「人は皆、救われる」とは書いてないことに注意する必要があります。ここではキリストがいよいよ歴史の舞台に私たちに分かる仕方で登場することが預言されていると理解した方がいいように思います。
3:7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
◆ヨハネは群衆を人々に危害を及ぼすマムシ呼ばわりします。その対象者はほとんどが聖書の神を信じていたユダヤ人だったと考えられます。本来ユダヤ人たちは人類に祝福をもたらすために選ばれた民でしたが、彼らはその使命から逸脱し、いつの間にかかえって人々に害悪を及ぼすようになっているとヨハネは悔い改めを導こうとします。つまり、ここで理解して置きたいことはヨハネはユダヤ教徒たちにそれまでの不信仰を改めさせ、これまでの誤りだらけの信仰生活を悔い改めさせようとしていることが伺えます。神に選ばれた特別な契約の民だからと言って、おごり高ぶってしまってはいけないと警告します。そういう者たちは迫りつつある神の裁きから逃れられないことを宣言し、警告しました。この警告は今日のクリスチャンにも向けられている警告として受け止めることも大切なのではないでしょうか。
3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
◆ここには「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことの大切さが強調されています。悔い改めのバプテスマを経た後にも目指すべき目標があることが強調されています。それは悔い改めに伴うところのそれにふさわしい実を結ぶことが重要だということです。この教えも私たちにも向けられている大切な教えだと言えます。主イエス・キリストを信じる決心をし、バプテスマを受けることは非常に大切ですが、その後もクリスチャンとしての信仰の実を結ぶような生き方をすることもそれと同様に重要だということが言えます。その実とは具体的には何をさすのかについては10節~14節に語られている人間側の努力によって改善していくことができるものと16節に語られる救い主の助けと導きによって結ぶことができる実があることがこの後語られます。
3:9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
◆主の裁きとは単に罪を悔い改めないことだけではなく、言ってみればクリスチャンと自称していても実際には良い実を結んでいない者も同様に裁きを受けることが語られています。
3:10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
◆群衆は具体的にどうすれば実を結ぶことができるのかを問いただしました。ヨハネが以下に述べている具体的な生き方は至って単純なものでした。11節は、多く持っているものは不足しているものに分け与えなさいということであり、13節は、まっとうに働き、人の益となる仕事をしなさいということであり、14節は、地位や権力や集団の力を悪用してはならないということだと言えます。
3:11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
◆ヨハネが示した具体例は、余分に持っている服や食料を不足している者に与える者となるように指示します。ここにはいくつかの人間の根源的な罪が示されています。その一つは私たちがつい自分の分を弁えないで必要以上に欲張り、持ち物や食料を手に入れてしまう罪が指摘されています。世界中で数えきれない人々が食料や医薬品や物資が不足しているために困窮している一方で日本を含む少数の先進国が他の国から必要以上にものを買い占めている現実が今日でもあります。私たちの国も神の裁きは免れないと言えるのです。別の問題は神が与えて下さる富の目的を理解しない罪です。神は他の人の不足を補うためにあえて一部の人に必要以上の資産を与えられます。それらは自分と身内のためだけに与えられた者ではなく、不足して困っている人々に分かち合うために与えられていることを弁える必要があるのです。自分の富を自分だけのために用いる人は神の裁きを免れないのです。
3:12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
3:13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
◆徴税人は国に代わって税を集める人々でした。いわば国から一定の仕事を与えられていた人々でした。その彼らがしていたこともまた神の目には罪ありとされるものでした。権力を笠に着たり、悪用して他の人から不当に利益をむさぼり取るという罪は社会構造の中に今日至る国で見られる現象です。わいろや裏の取引次第で物事が決まるというようなことも珍しくありません。このような与えられている権限の不当な利用がまかり通るような社会を生み出している者たちも神の裁きを決して免れないのです。ここにも悔い改めるべき領域があることを聖書は指摘しています。
3:14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
◆兵士という職業で代表されている人々というのはどういう人たちでしょうか。それは力で圧倒的に有利な立場にある人々であり、いざという時には集団で物事を強制的に自分たちの好きなようにできる人々だと言えます。集団は時には大きな暴力と化します。集団とは時にはある組織や会社、そして国にも当てはまります。様々な形態を取って自分たちの目的を達成するために相手の立場や利益を十分に配慮せずになし遂げようとする現実も現代社会には多く存在するのではないでしょうか。神はこのような者たちの罪をも裁かれます。これらのことに加担する者たちも悔い改めて、良い実を結ぶに至ることが求められています。
3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
◆民衆が求めていたものは偏ったものであり、それは強大な権力によって自分たちを支配していたローマ帝国からの独立を導いてくれるようなメシアだったと考えられます。そのような革命家であり指導者としてヨハネに期待がかけられていたことが伺えます。しかし、神が遣わそうとされている救い主とはまさに群衆、徴税人、そして兵士で代表される人々や団体、そして国に悔い改めをもたらし、良い実を結ばせることにあります。そして、そのことをヨハネは次のように説明するのです。
3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
◆真の悔い改めと神が求められる良い実をもたらすものこそ、ヨハネの後に来られる主イエス・キリストであり、そのお方は聖霊と火でこの世を変革していかれる救い主だと民に語ります。聖霊の役割についてはヨハネ福音書16章8節以降に語られているように、聖霊は罪の自覚を導き、神の御心を理解し信じることができるように導き、この世の悪とどう決別することができるかを導く働きをすることからも分かるように、それこそ私たちが本当の意味で悔い改めて、良い実を結ぶために必要不可欠のことだと言えます。そして、火とはエレミヤ23章29節や聖霊降臨日で示される神の御言葉を指示しているのではないでしょうか。私たちはキリストによって本当の意味で豊かに聖霊と神の言葉の中へと結び合わされていくことができるとのヨハネの言葉をかみしめたいと思います。
このような意味でバプテスマのヨハネは聖霊の導きで極めて正確にキリストの役割を説き明かしており、その前提となることとして罪を自覚し、罪の赦しを神に求める必要と、これまでの生き方を悔い改め、神に喜ばれ、人に喜ばれるような生き方の実を結ぶことの大切さを人々に導いた点においてこの時代、キリストに先立つ者としての重要な役割を担ったのであり、旧約聖書の預言の通りの役割をバプテスマのヨハネは果たしたと言えると思います。
今日の私たちはヨハネの後の時代を生きています。すでにヨハネが預言した主イエス・キリストの聖霊のバプテスマを体験することも可能な時代に生きています。そのような祝福された時代に生きる私たちは果たしてどのような実を結んでいるのか再点検して見る必要があるのではないでしょうか。その上で新しい時代にふさわしい実を結ぶ年に共にしていきましょう。