戦の際、通常ダビデ王は先頭に立って戦うが、この時は既に部下に指揮権を与えてエルサレムの王宮に留まっていた(11:1)。「年が改まり」とあるが、これは「雨期から乾期になる頃」である。雨期である冬が終わると短い春が来て一斉に花が咲く。とてもいい時期である。戦争状態も平定し、つかの間の安らぎを得たダビデは宮殿で昼寝をしていた。
やがて昼寝から目覚めたダビデは、夕方の涼しい風に吹かれながら王宮の屋上を散歩していた。すると大変美しい女性が水浴びしているのがダビデの目に留まった(11:2)。彼女はヘト人ウリヤの妻、バト・シェバであった(11:3)。なぜ「ヘト人」がイスラエル王のもとで仕えていたのであろうか。既に学んできたように、イスラエルは日本のような血縁国家ではなくいろいろな民族が編入され構成されている国家だからである。ヘト人はかつて小アジア(トルコ)で勢力を持っていたが、ダビデの時代には既に弱小民族となっていた。ウリヤの父の頃にはイスラエルに編入されていたのである。ウリヤはダビデの「三十人の勇士」の一人に数えられたほどの優秀な家臣であった。
すぐにダビデは使いを差し向け、バト・シェバを召しいれ、関係を持った(11:4)。夫のある女性と関係を持つ「姦淫」はモーセの十戒でも禁じられており、レビ記では「姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ20:10)と規定されているほどの重罪であった。
やがてバト・シェバが自分の子どもを宿したという報告がダビデの耳に入る(11:5)。ダビデは何とかしてこの子どもを「ウリヤの子ども」に仕立てあげようと策を講じた。ダビデは真剣にバト・シェバと結婚する気があったわけではなく、彼女を単なる浮気相手と考えていたであろうことが想像できる。ダビデは家臣ヨアブに命じ、「戦況報告をせよ」という口実でウリヤを戦地から呼び戻した(11:6−7)。そこでウリヤをバト・シェバの待つ自宅に帰らせる算段であった。
しかしながらダビデの計算は狂った。ウリヤは「王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった」のである(11:9)。慌てたダビデはウリヤを問い詰めた。ウリヤは「戦が続き、神の箱もイスラエル全軍も戦場にいるのに、自分だけが家に帰ってくつろぐわけにはいかない」と答えた。「あなたは確かに生きておられます」(11:11)というウリヤの言葉はどのように理解するべきであろうか。「あなた」を「神」とする写本もあり、またそのまま「あなた」を「ダビデ」と読むならば、「ダビデの命にかけて」「あなたの命令は生きています」と解釈することも可能である。それほどに家臣ウリヤは忠実で敬虔な人物であった。戦争に出る兵士は性的な節制を求められていたが、ウリヤはそのことも理解していたのである。
ついにダビデはウリヤを殺して未亡人となるバト・シェバを妻として迎える決意をした。あろうことかダビデは王としての権力をもってウリヤを亡きものにする方法をとったのである。「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」(11:15)という内容の手紙をダビデはウリヤ自身に託し、ヨアブに届けさせた。ウリヤは忠実な家臣であったから、厳重に封がしてなかったとしても彼は中身を読まなかったであろう。
ダビデの命を受けたヨアブは、町に接近しての戦いを仕掛け、ウリヤを含め多くの戦死者が出た。ダビデは当初、アビメレクの故事(士師記9章)を引き合いに出しその作戦を咎めたが、「王の僕ヘト人ウリヤも死にました」(11:24)の報告を聞くと、それ以上の追及はしなかった。
バト・シェバは夫の悲報のゆえに嘆いた(11:26)。ところで、この物語においてバト・シェバはあくまでも受け身の存在として描かれているように見える。一方で三浦綾子は「彼女はすべてのことを計算に入れていたのではないか」と解釈し、わざわざダビデ王の目に付くようなところで行水したり、喪が明けると早々にダビデの召しを受け妻になっていくバト・シェバをしたたかな女性として描き出している(三浦綾子『旧約聖書入門−光と愛を求めて』、光文社、1984年)。いずれにせよ、「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」(11:27)。
12章では預言者ナタンがこの物語に登場してくる。ナタンはサムエルの弟子であった。預言者として王にもはっきりと物を言うナタンは、ダビデにひとつのたとえ話を語った(12:1−4)。ダビデは自分のことを言われたこととは思わず、「そんなことをした男は死罪だ」と激怒した(12:5)。律法では「不当な貪りをしたら4倍の償いをせよ」と定められており、「死罪」とは定められていない。しかしダビデは「そのような罪は死罪にあたる」と言い放った。権力を持ちおごり高ぶるダビデの姿が見て取れる。
そこでナタンはダビデを叱責する。ダビデに対して神はいかに恵み深かったか、それなのにダビデは神を侮った。ダビデは「神をないがしろにする罪」「他人の妻を奪う貪りの罪」「殺人の罪」、実に十戒のうち3つも違反したのである。一般社会であれば、このような罪を犯した者は「社会的制裁」をまず受けることになる。しかしここでは「神に対して罪を犯した」というのがナタンの叱責の中心になっている。
ナタンの預言のとおり、その後ダビデの家系、一族には様々な不幸が起こった。「神は罪を見過ごしにされないこと」「神の義が成ること」「それゆえに確実に裁きがあること」の宣言である。
神の前に罪を指摘されたダビデは、「わたしは主に罪を犯した」(12:13)と告白した。本来であればダビデは王としての権限を持って、このような無礼なことを言う預言者ナタンを亡きものにしようとすればできたのであろう。しかしそうではなくやはりダビデはナタンを預言者として認め、その言葉の前に自分の罪を受け止めた。13節の言葉は何よりも神に対して罪を犯した告白であった。なお、この時のダビデの悔い改めの祈りが詩編51編である。
既にイスラエルにおける「王と預言者」の関係を繰りかえり学んできたが、イスラエルでは王が罪をおかし問題を起こしたら指摘するのが預言者の役割であった。先日、民主党の小沢一郎幹事長の「キリスト教は排他的で独善的だ」という談話が出されたが、それに対し「日本キリスト教連合会」(山北宣久委員長)から抗議文が出された。キリスト教が他宗教との協力や対話の中で仕事をしているというイメージは日本の中であまりないのかもしれないが、だからこそ影響力ある政治家の発言に対して、キリスト者が物を言っていくことが大切になるのではなかろうか。
政治家だけではなく宗教家も、有名になり権力を持つ立場に置かれるとストレスも強く感じるし、様々な誘惑にさらされやすいことは事実である。セクシャルハラスメントの問題なども、教会にとっては他人事ではなく常に身近にあるものである。聖書は「すべての罪は赦される」と語るが、それは「罪に対して裁きがある」ということを前提に受け止められなければならない。「神の裁きがある」という事実が軽んじられてはならない。もちろん「赦し」はある。神が赦すことのできない罪はない。しかしそれは心から悔い改め神に祈る人のためにのみ備えられているものであり、最初から無条件の赦しがあるわけではない。人が他人を糾弾し裁くことはできないが、本当の悔い改めがないと罪の赦しも上っ面だけのものになってしまうということを教会は語っていかなければならないのである。