22章の「ダビデの感謝の歌」は、「主がすべての敵の手から、またサウルの手から彼を救い出された日に」歌われたものであるという説明から始まっているが(22:1)、この説明は後に付け加えられたものである。ダビデは晩年に波瀾万丈の人生を振り返り、神がいろいろな危機から自分を救ってくれたことを思い起こし、罪や失敗を叱責されたことも含め、神が生涯自分を守り導いてくれたことを感謝して賛美しているのである。
ダビデは様々な言葉を重ねて、神の力と守り、神と自身の深い関係を表現している。例えば「大岩」(22:3)とは「身を隠す場所」「保護される場所」を表す。誰しも人生の試練と危機を避けることはできない。試練や危機そのもののみに目を留めるならば、我々はそれらに出遭うたびに振り回され落ち込むほかない。しかし我々はそのような日に主に依り頼むことができる。そして人生の試練や危機を乗り越えることができるのである。
古代世界において、「水」は「死」と直結するイメージを表現するために多用される言葉であった。ダビデも「死の波」「奈落の激流」(22:5)という言葉で「死」の世界を表現している。そこには常に死と向き合っているような緊迫感がまとわりついている。古代人は自身の人生における危機と「死」を直結したものとして意識していたのではなかろうか。
「陰府の縄」「死の網」(22:6)とは「敵対するもの」「人を捕らえてしまうもの」を表している。そこにある「死」は単なる肉体の死ではなく魂を絶望させるものである。
ダビデは人生の「苦難の中から主を呼び求め」た(22:7)。「苦難」とは「狭い追いつめられた場所」「拘束された状態」を示す。しかしそのような中に置かれても、神に向かって叫び呼び求めると、祈りの声は神のもとに届いているのだという信仰をダビデは頂いていた。同じように、危機の中で我々は祈ることができる。それが我々の慰めである。祈り依り頼むべき神を信じないなら、ただ苦難の中で追いつめられるだけである。しかし我々は「神は自分の叫びの声を聞いて下さっている」という信仰により、苦難の日にも神に希望をおくことができる。
ダビデは神の怒りが臨む行為を、自然現象を持って表現した(「主の怒りに地は揺れ動き、天の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炭火となって燃えさかる」、22:8−9)。「ケルビム」(22:10)とは「翼を持ったライオンのような動物」であり、我々を守る天使のようなものとして神殿に置かれていたものであるが(cf. 列王記上6:23−30)、これを「雲の擬人化」と解釈する研究者がいる。「雲」は「神の臨在」を示す。出エジプトの時も、神は「昼は雲の柱をもって」(出エジプト13:21)民を導いた。このように「雲」は神を身近に感じるときの象徴として用いられる言葉である。
神は臨在しておられるにもかかわらず、我々の目には見えない。信仰者にとっても神が常に良く分かり、身近に感じられるときばかりではない。神は「周りに闇を置き、暗い雨雲、立ち込める霧を幕屋とされ」(22:12)、ご自身を「隠される」こともあるからである。信仰の詩人たちも、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22:1)、「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」(詩編13:2)と率直にその事情を嘆いているが、神は常にご自身を「表される」と同時に、ご自身を「隠される」方でもある。我々が欲するときに、すぐに神の平安を得ることができるときばかりではない。
しかし、「御前の輝きの中から炭火が燃え上がる」(22:13)ように、神はご自身から我々に声をかけて下さる。 「矢は飛び交い、稲妻は散乱する」(22:15)かのように、神の救いの御業があらわされるようになる。神がご自身の臨在をあらわすとき、「海の底は姿を現し」「世界はその基を示す」(22:16)、すなわちすべての事柄があらわにされるのである。
神は常に我々の祈り叫びを聞いていて下さっているにも関わらず、それが我々には分からないときがある。しかしやがて神は「高い天から御手を伸ばしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる」(22:17)ように、御声と御力とをもって、助けを表して下さる。我々の「敵」(22:18)は、人生の危機において、肉体のみならず、我々の魂まですべてを滅ぼしつくそうとする「悪しき力」である。「敵」は「力があり」「勝ち誇っている」(22:18)かのように見える。しかしそれでも「なお、主はわたしを救い出される」(22:18)。そして「わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる」(22:20)。「広い所」とは「安全な場所」であり、前述「苦難」(22:7)の対義語である。このことは神の憐れみによる以外に理由を持たない。それはダビデの人生において体験した神の御業であった。自分に対する神の愛の不思議さを感じてそれを確信しているこの「ダビデの賛歌」は、まさに「信仰の歌」である。