イエスは、彼の訴えに直接答えてはいかないが、向き合って彼と対話し、遺産の分与にかかわることは貪欲を生むと指摘し、「財産より人の命こそ大切である」ことへと視点を変えさせていく。
【ルカ12章16−20節】
イエスは再び群集に向かって「ある金持ちの畑が豊作であった」と、ひとつのたとえを語り始めた。豊作で「どうしよう」と思うほどであった。考え抜いて、これまでの努力を無駄にしないよう、倉を大きく建て替え、穀物や財産をしまいこんだという。次に、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ」とある。この「穀物」とは「種子」という意味で、この先何年も作物を得ていく見通しが立った、と金持ちは喜んでいるのである。原語では「自分の」倉に、「自分の」穀物を、「自分の」財産を、と、しつこく「自分の」という言葉が付けられていて、自分に囚われていく様子が表れている。
更に「自分に言ってやるのだ」とある。口語訳聖書でこの箇所は「自分の魂に言おう。魂よ・・・安心せよ、食え、飲め、楽しめ」となっている。15節の「人の命は・・・」の「命」という言葉は、原語で「生命的命」を意味する「ゾーエー」であるが、16節では、翻訳されていないものの、「霊的な命」としての「魂」を意味する「プシュケー」が使われている。遺産に執着していた男の問題は、「財産」より生きる「命」へ、そして「魂」「霊的な命」の問題となっていく。ただ生きていくのではなく、「どう生きるか」という「生き方」が問われていく。
自分が中心になるとき、そこには貪欲が生まれる。神を中心にして生きるとき、新しい命に導かれる。
【ルカ12章21節】
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」。「神の前に豊かになる」、あるいは「神に富む」。そのような生き方はどのようにして得られるのだろうか。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント8章9節)。
「神に富む」という生き方は、自ら貧しくなってくださった、イエス・キリストに依り頼むとき、恵みとして与えられる。命は富では保証されなかった。永遠の命に目を向けて歩んでいきたい。