ヨハネによる福音書1:10-13
「ヨハネによる福音書」はイエス・キリストのことを「まことの光」(9節)と言い表す。それはどのような「光」であるのか。「まことの」という言葉には様々な意味があるが、ここでは「信ずるに値する」「信頼しうる」という意味に取りたい。イエス・キリストは創造された「光」ではない。まさに全ての光が創られる前から存在する「まことの光」である。この「信頼に値する光」こそ、我々を明るく照らす。そして我々はその「光」の中に移されていくのである。
「言」であるイエス・キリストは「世にあった」(10節)。世界が創造される前は存在されなかったのではなく、永遠におられたということである。そして存在するだけでじっと沈黙されているのではなく、この世でご自身のわざをなし続け、行動し続けておられる。「言」なるイエス・キリストは我々のうちに生きておられるのである。
「世」という語を「ヨハネによる福音書」は度々用いる。「世」とは「宇宙」「被造物全体」という意味も持ち、あるいは「神に創られたにもかかわらず神に背く状態」「神の働きや啓示に無頓着な状態」をも表現する。いずれにせよ、端的に「人間の世界」という意味で理解すればよい。「言は世にあった」とは、イエス・キリストが人間の世界にずっといらっしゃるのだということを示す。「過去、存在しておられた」「人間から遠く離れて存在しておられる」ということではない。「言」は常に我々のうちに近くおられ、我々はその「言」について知ろうと思えばいつでも知ることができ、聞くことができる。御言葉は今もこの世に響き渡っている(cf., 詩編19:4)。「神は我々と共におられる」という事実は、クリスマスの出来事において始まったのではない。「インマヌエル」と呼ばれる御子の誕生は、イエス・キリストにおいて我々と共にいてくださる神が明らかにされた出来事なのである。
しかし「世は言を認めなかった」(10節)。我々自身は、このイエス・キリストが創り主であり、父なる神と共におられ、みわざをなしていることを認めなかった。そして「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(11節)。この「自分の民」とは伝統的に「ユダヤの民」と解釈されることが多い。アウグスティヌスやカルヴァンもまたそれを「特に選ばれ、神の啓示と言葉を受け入れるユダヤ人」と解釈した。一方、バルトはこの語について、ある一定のグループに特定するよりも「世界の人類全体」と考えたほうが意味が分かりやすいとしている。世界は「言」なるイエス・キリストによって創られた。その「言」は、本来神に属している我々に向けられている。それにもかかわらず、我々はその「言」を聞こうとせず、信じて従おうとしなかったのである。
これらの箇所は確かに「神を受け入れない人間」について語っている。しかし、そのことがここで強調されるのではない。むしろ、12-13節で語られることが積極的に強調されるのである。「世」の不信仰にもかかわらず、神はなおこの「世」でみわざを果たし続けられる。そして信じる者がおこされ、「神の子」(12節)が生まれていく。これらの箇所にはそのような神の勝利のメロディーが響き渡っている。そのところに目を向けたい。「世」は神の「言」を退けるが、神の「言」はより強力であるというメッセージがここにある。イエス・キリストの言葉を聞き、イエス・キリストの霊に導かれて、イエス・キリストを受け入れる者がおこされていく。「その名を信じる」(12節)という表現があるが、「名」とは「イエス・キリスト」という名が担っているその方そのものであり、「イエス・キリストの人格」の全てである。そして「その名を信じる」とは、その「名」に関する説明を信じるのではなく、その「名」があらわす方、我々を赦し生かしめるイエス・キリストの人格そのものを信じることである。
イエス・キリストを信じる者には「神の子となる資格」(12節)が与えられる。「資格」とは「法的な可能性」を示す語であり、バルトはこの部分を「キリストは、み名を信じる者に神の子となる可能性を与えた」というように理解した。それでは、イエス・キリストが「神の子」であることと、我々が「神の子」とされる立場に置かれていることとの関係において、この「神の子」という語の意味は同一なのであろうか。ヨハネは両者に別の語を用いて区別しているが、パウロはあまり区別していないようである。信じる者が「神の子」であると言われる場合、そこには「既に神の子であるが未だ完全なかたちではない」という面があるが(cf., Ⅰヨハネ3:1-3)、今なお罪の中におり不自由さを負っているにもかかわらず、やがて完全に贖われる希望を抱いているので、我々は今を忍耐して生きることができる(cf., ローマ8:18-25)。具体的には神を「アッバ、父よ」とお呼びすることのできる信仰を与えられていることにより、我々は自身が神の霊によって生まれ、完成へ向けて導かれている存在としての「神の子」であると知ることができるのである(cf., ローマ8:14-17)。