ヨハネによる福音書1:4-9
先週学んだように、本日の箇所もヨハネ共同体の「キリスト賛歌」であると言える。その賛美は、主イエスを自然科学的な見方で分析するのではなく、信仰告白の言葉をもってほめたたえているのである。
「言」という語が本日の箇所にも登場する。これも先週学んだように、単なる「言葉」ではなく「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)方である「イエス・キリスト」を指す語である。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(4節)という文章は、その通りであるようでいて、色々考えてみると分かるようで分からない箇所ではないだろうか。神によって創造された全被造物、とりわけ命のあるものは全て神から祝福された尊い命を与えられている。神の与えてくださる「命」が、「言のうちに命があった」と4節前半で語られているところの「命」である。一方、「命は人間を照らす光である」と4節後半で語られている「命」は、「イエス・キリストの命」を意味している。主イエスは神が与えてくださる永遠の命そのものであり、その主イエスが受肉し、まことの光としてこの世と人間を照らしてくださった。ご自身のまことの光を与えることによって、主イエスは人間を「永遠の命」であるご自身のもとに招いてくださっているのである。
主イエスの「光は暗闇の中で輝いている」(5節)。この部分が現在形で語られていることに注目したい。この福音書が書かれたヨハネ共同体においても、現在のこととして主イエスの光が輝いていた。そして、福音書が書かれた時代だけではなく、福音書を読む者たちの時代においても、現在のこととしてその光が輝いているのである。
これらの箇所においては「命」「光」という語がほぼ同じような意味で用いられている。「命」は「光」としてあらわされた。その「命」は主イエスのうちにあり、主イエスは「光として世に来た」(ヨハネ12:46)のである。しかし神から離れて暗闇の中にある世の中で「光」は理解されなかった。『岩波訳』はこの箇所を「闇はこの光を阻止できなかったのである」、『口語訳』は「そして、闇はこれ(光)に勝たなかった」と訳している。
続く6-9節は洗礼者ヨハネについて記している。6節ではヨハネを「神から遣わされた一人の人」と言い、正統な預言者として紹介している。またヨハネは主イエスについて「証しをするために来た」(7節)人であった。「ヨハネによる福音書」では、洗礼者ヨハネが「預言の成就」として登場した預言者であるという位置づけを強調している。そのような表現の背景には、当時、洗礼者ヨハネの評判と人気が高かったという事情がある。洗礼者ヨハネはその活動が進展するにつれ、「メシアではないか」とさえも目されていた(cf., ルカ3:15)。それまで預言者が400年ほどの期間出現しなかったこともあり、洗礼者ヨハネの評判は高まった。パウロの時代でさえも洗礼者ヨハネの名はとどろいており(cf., 使徒19:3-4)、その影響力の大きさが推測できる。そのような状況を前提としつつ、8節では「洗礼者ヨハネ自身がメシアではないのだ」「洗礼者ヨハネはまことのメシアについて証しをするために来たのだ」と敢えて強調されているのである。恐らく、当時の人々は主イエスご自身の地位を脅かすほどの地位を洗礼者ヨハネに与えていたのであろう。福音書記者は、その認識を訂正し、主イエスについて正しく認識させる必要があった。洗礼者ヨハネの使命は、「光」を理解しない時代の中で「光」について証しし、自分に知らされたことを明確に伝えることであった。「光あれ」(創世記1:3)と言われた神の「光」に、我々は主イエスによる新たな創造によって招き入れられ、生まれ変わらせられる。主イエスは神の「命」を頂き、暗闇に落ちた世の中にその永遠の命に生きるための「光」を持って登場されたということを、本日の箇所は語っている。クリスマスを迎えるに当たり、主イエスが「光」として生まれたことと、それを証しすることの大切さを確認したい。