ヨハネによる福音書2:13-22
「ヨハネによる福音書」は、主イエスの出来ごと~「先在のイエス」、受肉、十字架、復活、顕現、高挙~について語るが、それは時系列順に並べられた形では構成されていない。ヨハネの信仰共同体において書かれたこの書物は、主イエスに関する伝承を著者の意図をもって並び替えて記した。主イエスの復活の後に、主イエスの出来ごと全体が振り返られ、その信仰を通して全体が再構成されているため、他の福音書と比べると様々な事柄が混在しているのが分かる。その意味で、「ヨハネによる福音書」とは「どこをとっても金太郎飴のよう」(大貫隆)であると言われるが、本日の箇所についても同様のことが見られる。他の福音書では主イエスの「エルサレム入城」直後の出来事として語られている「宮清め」の記事が2章に配置され、ここで既に「三日目に復活された主イエス」について語られているのである(21-22節)。「ヨハネによる福音書」の著者はある明確な意図をもって、この記事をこのような形でこの場所に配置した。
ここで言われる「ユダヤ人」とは、「ユダヤ民族」全般ということではなく、「特定のユダヤ人」を指している。それは、ユダヤ教とユダヤ社会を成立させている大元であるところの、祭司長を筆頭とする「神殿当局者」たちのことである。神殿を運営している人々が神殿を食い物にしているという状況がそこにはあった。神殿でささげられる「犠牲の動物」については厳密な規定がある(cf., レビ記1章ほか)。それらは全て「無傷」のものでなければならない。しかし人々が自宅からそのような動物を携えてエルサレム神殿に赴く時、それを「無傷」の状態に保つことは大変難しい。そのため、「犠牲の動物」が神殿の境内で販売されていたのである。更に、神殿で通用する貨幣はユダヤ社会の通貨シェケルに限られていた。「犠牲の動物」を購入するためにはシェケルへの換金が必要な場合が多く、そこで不当な利潤を得るユダヤ人たちが存在した。主イエスはそのような不正を見逃すことができなかったのである。
「ヨハネによる福音書」は主イエスについて「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)と語っている。主イエスご自身が「犠牲の小羊」としてささげられたからには、人々は「犠牲の動物」をもはやささげることが不要となった。ここには主イエスが「神殿を中心に行われていた祭儀中心主義を廃棄するため」に来られたのだというメッセージが同時に語られている。それは「形骸化して生命を失っている偶像崇拝の宗教団体に対する厳しい戦いの宣言」(高橋三郎)であった。「ヨハネによる福音書」はその宣言を主イエスの宣教の初めに配置したのである。
当時のこのような状況は既にエレミヤによって預言されていた(エレミヤ7:1-11)。そして他の福音書ではこの場面で「エレミヤ書」を引用している(ex. ルカ19:46「強盗の巣」)。一方「ヨハネによる福音書」ではこの場面で「詩編」が引用されている(69:10)。迫害された信仰者の痛みを歌うこの詩編69編は悲しい結末になっているだけに一層、神に対する激しい信頼が浮き彫りになっている。この熱心な信仰者こそ、主イエスであった。神に対して熱心であるがゆえに、その人は迫害され、食い尽くされる。ヨハネのこの箇所では「食い尽くす」(17節)という語が未来形で記されているが、そのようにこれから主イエスは迫害され、十字架に追いやられていく。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」、そう語るその人こそ主イエスであった。弟子たちはそのことを「思い出し」(17節、22節)、「聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(22節)のである。
このような行為に出られた主イエスに対し、対立する「ユダヤ人」たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(18節)と詰め寄った。どんな資格や権威があってこのようなことをするのか明らかにせよ、と迫ったのである。主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)とお答えになった。それを聞いた「ユダヤ人」たちは「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」(20節)と言った。エルサレム神殿は紀元20年にヘロデ大王によってその再建が着手されたが、主イエスが地上で生きられた時代には未完成のままであり、完成は紀元63年を待たねばならなかった。エルサレム神殿はユダヤ人にとって「民族の誇り」「信仰の拠り所」であった。しかしそこに象徴される信仰の姿勢、ひいては生活全体を解体することを意味するのが、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(19節)という言葉だったのである。そこでは主イエスご自身こそがまことに礼拝されるべき方であるということが訴えられ、ユダヤ教的祭儀の廃棄が宣言されている。「神殿」とは主イエスご自身のからだ、復活の主イエスご自身である。復活され、今なお生きておられる主イエスへの信仰によってユダヤ教を乗り越えていくのだという著者の主張が本日の箇所ではあらわになっていると言える。