ヨハネによる福音書2:23-25
「過越祭」(23節)は、聖書のなかにしばしば登場するユダヤ教の祝祭である。イスラエルの民は神によって奴隷の地エジプトから解放され、神との契約の中で「神の民」とされた。それを記念し祝うのが「過越祭」である(cf., 出エジプト記12:14、18、申命記16:1)。主イエスはアビブ(ニサン)の月(太陽暦では3月末から4月初めごろ)の14日夕刻から始まるこの祭りに、ご自身の死の意味を重ね合わせられた。人間が罪と死から解放され「神の民」とされるための犠牲の死として、ご自身の死を捉えられたのである。
当時もユダヤ人たちはこの日を「記念すべき日」として大切にしており、多くのユダヤ人たちがエルサレムに訪れ、エルサレム神殿で過越祭を守っていた。彼らは「過越」の出来事を喜び祝うと共に、自分たちを解放する「救い主」「メシア」の到来を祈っていた。そのような中、主イエスは「エルサレムにおられ」(23節)、神殿で語り、病人を癒すなどの奇蹟を行った。そして「多くの人がイエスの名を信じた」(23節)。
しかし「イエス御自身は彼らを信用されなかった」(24節)。それはどういうことであろうか。主イエスは「全ての人のことを知っておられ」(24節)た。多くの人々は主イエスを信じた。しかしそれは、主イエスの「なさったしるしを見て」(23節)、力ある方として主イエスを信じたのである。もし、主イエスが奇蹟も行わず、十字架から降りることができないとしたら、人々は信じたであろうか。自分たちのために力あるわざを表わすなら信じるが、そうでないなら信仰は吹っ飛んでしまう、そのような人間の心を主イエスは知っておられたのである。
主イエスは「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかった」(25節)。つまり、「人間とはどういうものか」ということを誰かから教えて貰う必要がなかった。主イエスご自身が具体的な事柄をもって、それをよくご存知だったからである。人々は主イエスを「王にするために連れて行こうとして」(ヨハネ6:15)いた。「この方こそイスラエルを救って下さる」という人々の期待がそのようにさせた。しかし主イエスはそれを知り「ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6:15)。また主イエスは、十字架を前にしてエルサレムへ入られた時、歓喜して「ホサナ」と口々に叫ぶ人々の声を聞いておられた(ヨハネ12:12-19)。「ホサナ」とは「今、救ってください」という意味であり、「王」に向かって叫ぶ「万歳」というような言葉であった。しかしその人々は数日後に主イエスを「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫んだ(ヨハネ19:15)。人々の心は熱しやすく冷めやすい。そのことを誰かからわざわざ教えて貰わなくても、主イエスはよくご存知だったのである。
主イエスは「奇蹟」という現象だけを見て、そこに示されている「霊的なしるし」に気づかない「信仰」を「信用されなかった」(24節)。例えば「病気を癒した」という出来事は何を意味するのであろうか。その現象には主イエスの深い憐れみが表われている。苦しむ者を憐れみ癒しの御手を差し伸べられる神の愛が表われている。そのような神を信じることが大切である。しかし目に見える「奇蹟」「癒し」を重んじ、求めていく心が人間の中にある。そのようなものを「見たら信じられる」という心である。神はもちろん、病いを「癒す」ことがおできになる。しかし、それが自分の思い通りに叶わなかったら信じないのであれば、それは単なる「御利益信仰」に留まってしまう。もちろん我々は苦しみの中で「神さま、助けてください」という願いを持ち、切羽詰まった中で神に近づくことがある。神はそのように助けを求める思いを拒否されず、受け入れてくださる。その中で神との関係、神を信頼するというつながりができていく。そのことなしに「~してもらいたい」という願いのみに留まるならば、神が自分の願いを叶えなかったり都合の悪いことが起こったら神から離れていくというような自己中心の信仰で終わってしまうのである。
『新共同訳聖書』が「信用されなかった」(24節)と訳した言葉を、『口語訳聖書』『新改訳聖書』は「自分をお任せにならなかった」と訳している。もし主イエスがご自身を人々に任せられたなら、人々は自分たちの利益や願いを実現してくれる「王」として主イエスを担いだであろう。そうであったなら、主イエスは単なる「野心家」ということになってしまう。主イエスがもし人々の上に立とうとされたなら、人々からの人気や「イエスを王に」という動きを利用すれば良かったかも知れない。しかし主イエスは、「イスラエルの王」という地上の一時的な救世主になることを願われず、「救い主としての役割」「父なる神から与えられた使命」を果されようとした。真に神と向きあい、神との人格的な関係の中に置かれ、赦され、神のものとされ、神の支配の中に生きるという「救い」を人間に与えるために主イエスは来られたのである。主イエスはご自身を「人々」にではなく、ただ「父なる神」にのみお任せになった。
主イエスは人間を愛しておられた。愛するゆえに、その命をささげてくださった。しかし「愛する」ことと「任せる」こととは違う。パウロはこのように祈った。「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(フィリピ1:9-10)。神から求められている「愛」とは、本当の意味で人を建て上げるような「愛」であり、その人に全く自分を「任せる」という関係ではない。「この人がいなくなってしまったらもう駄目だ」と頼り切り、完全に期待し、自分の願いを押し付けるような「愛」であったとしたならば、その人が亡くなったり自立していったりした時、その関係は無くなってしまう。どのような「愛」を身に着けていくべきか、それは我々にとって生涯の祈りの課題である。
主イエスはそのご生涯の中で、病気や貧しさに苦しむ人々を憐れみ、彼らを立ちあがらせるみわざを表わされた。「奇蹟を見たから信じる」というのは本当の信仰ではない。しかし、そこから神との関係が始まるかもしれない。神は主イエスを通してご自身の愛と真実を表わされた。その神を信じ、良い時も悪い時も信頼して生きて行くことが求められている。主イエスを「救い主」と信じ、交わりを持ち、神と相対して生きることが求められている。そのような信仰でなければ、我々は人生の危機の中で信仰を全うすることができない。「信仰」とは「神への人格的な信頼」である。その神の御用のためには自身が犠牲になることも厭わない、そのような信仰を主イエスは求めておられる。