西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
総合テーマ 「神の忍耐と決断」
◆前回からの流れ
神は箱舟から出たノアとすべての生き物、またこの後に地上に現れるすべての生き物に対して二度と全世界を洪水で滅ぼすことはないと約束します。この約束は虹が空に現れる限り、常に神の御前に覚えられていることが契約の印として与えられます。その後ノアは950歳で死に、子孫が増えて行ったことを示す系図が示され、今回の箇所につながります。果たして人類は洪水前の人類と違って神の御心の中に生きることができたでしょうか。
黙想のポイント
・ノアの後に続くバベルの塔までは、神の新しい契約と祝福の中で新たに生きることを許された人類を表しています。そして、今回の出来事は、その後に続く神の民、また教会への大事なメッセージを含んでいます。
そもそも創世記は神、罪、救いを知らない人類に向けて書かれた神の御心とご計画を明らかにしている書です。そして、この福音を知った者たちに神と共に生きることを導く書です。中でも創世記11章までが、聖書全体のメッセージを凝縮したあらすじになっています。
また、11章までの内容を罪に焦点を合わせて見るならば、大きく分けて4種類の罪に関する内容が語られています。最初はアダムとエバの話しを通して示されている、神の御心の中に生きることに背き、自分の欲望に従って生きる罪。次に、カインとアベルの話しを通して、神と共に生きることを真に喜ぶ感謝と礼拝の生活に背き、不満と敵意、争いと支配の中で生きる罪が示されました。そして9章後半では、ノアが家族に示した間違った模範と自分が犯した過ちを責任転嫁するばかりでなく、人を呪う罪が示されました(聖書教育誌では今回この箇所は扱っていません)。こうして今回の箇所で、人類の根本的な罪の問題が語られることになります。それは言わば、一つに団結して生きている、教会のような神の共同体の中に起きる問題であり、隠れた根源的な罪であり、罠です。いったいどんな罪がこの箇所で示されているのでしょうか。今日の教会やこれまでの教会の歴史はどのような意味で問われ続けているのでしょうか。
◆バベルの塔
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
>>>これらの箇所には神の民であるイスラエルや教会が直面していく不信仰の問題とその歴史が示唆されています。また同時に、歴史はバベルの塔の話しからイエス・キリストを境にして、世の終わりへと逆行していく流れの中にあることが示されています。黙示録を読むと、人類はやがて再び単一言語に統一されていく方向性が預言されています。11章1節のような時代が再び来るということです。それ自体は決して悪いはずがないのですが、どこに問題が生じるのでしょうか。
2節では人々が定住の地を見つけたことが語られています。安心して住める地を見つけたこと自体は何も悪いはずがありません。しかし、このどこに問題が生じるのでしょうか。
さらには3節で人々が新たな技術を開発していく様子が語られています。それ自体は悪くないはずですが、それのどこに問題が生じて行くのかも問われているのです。そこで次の4節で問題の核心が語られます。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
>>>この言葉の中には、彼らの高い志が読み取れますが、同時に他の地域に住んでいる人々よりも優れた町を建て、どこよりも住みやすい、安住の地にしようという思いが伝わって来ます。しかしながら、立派な志ではあっても、神の御心と人生の本来の使命を実現しようという意志は感じ取れません。まさにここにバベルの塔の問題は存在するのです。
これまで学んで来た創世記1章や前回学んだ9章の内容と比較する時、今回の箇所の根源的な問題が見えてきます。神は統一王国を形づくることを命じられたのではなく、全世界に広がって行くようにと命じられたのです。しかし、この箇所は人々が神の使命に生きて全世界に広がって行くことよりも、自分たちの内輪の繁栄と安定が生活の中心になってしまっていることを、見ることができます。人々はさぞ団結し、暮らしを良くするために喜びと労苦を共にしたことでしょう。活気あふれるバベルの塔の建設現場が思い浮かびます。しかしながら、いつの間にか一番大切な神の使命に生きる共同体としての役割を見失ってしまったのが、バベルの塔の教訓だと言えます。人々は神の目的のためではなく、いつしか他の町よりも「有名」になることが努力目標になってしまったのです。そして、「全地に散らされること」を恐れるようになってしまったのです。ここに神の使命に生きることを億劫に思うようになっていた人々の現実も見えます。神がどれほど過去に犠牲を払って彼らと先祖の生活を導いてこられたのかという理解や、そのことへの感謝が失われてしまっています。神はそんな彼らを再び洪水で滅ぼされません。その代わりに別の方法で彼らの進むべき道を方向転換させていくことになります。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
>>>この箇所は聖霊降臨を思わせます。ペンテコステの日に起きたことを思い出しましょう。聖霊が働く時、人々は何をしたでしょうか。様々な言語で話したこと、そして、神の御業を口ぐちに賛美したことでした。全世界に出て行って伝道する基礎が神の御業によって整えられたのです。
マタイ福音書28章18~20節 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マルコ福音書16章15節 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
使徒言行録1章8節 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。
今回の箇所はまさにペンテコステを連想させます。この箇所でグループごとに異なる言語で話すように働いておられるのは、ペンテコステの時と同様に聖霊の働きに違いありません。7節で「我々は下って行って」の我々とは主なる神と聖霊のことだと理解することができます。聖霊の介入によって、誤った道に進んでいた神の民がもう一度神の御心通りに全世界へと送り出されているのです。ただし、歴史はそう簡単にすべてが順調に進みません。そこで神はイスラエル民族を用い、預言者を用い、主イエス・キリストの誕生と十字架のあがない、そして聖霊降臨を待つことになります。そこへと通じる神の人類救済のための大パノラマが映し出されているのが今回のバベルの塔の話しなのです。
分かち合いのポイント
・私たちの教会は内向きになっている教会でしょうか。それとも地域伝道や世界宣教に果敢にチャレンジしている教会でしょうか。今日の個所に照らし合わせて、教会の宣教課題の現状について共に分かち合いましょう。
<参考> 今月の4週の聖書教育誌採用箇所は棒線で示します。
4章)◆カインとアベル…カインとその末裔レメクまで
5章)◆アダムの系図…ノアと三人の子どもたちの誕生まで
6章)◆洪水…箱舟を造り、すべての肉なるものから二つずつ箱舟に連れてくるよう命じられ、果たすノア
7章)箱舟に入り、洪水150日まで
8章)雨が降りやみ、アララト山に止まり、外へ出て祭壇を築くノア
9章)◆祝福と契約…契約の虹
◆ノアと息子たち…ノアの裸事件、ノアの死950歳
10章)◆ノアの子孫…系図
11章)◆バベルの塔…
10節~◆セムの系図
27節~32節◆テラの系図