2017年1月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 1/22 マタイ9章18-26節「立ち上がるイエスさま」
総合テーマ キリストに従うように招かれている私たち
黙想のポイント
*キリストは行くところ、どこででも癒しをしていかれますが、癒しが起きるためにはキリストの癒しの能力以外に、ある重要な条件が必要だと示されます。それは何か、黙想しましょう。
◆前回~今回までのあらすじ
7章まで山上の説教が続いた後、8章ではイエスは重い皮膚病の患者、百人隊長の中風、ペトロのしゅうとめおよび大勢の人を癒して行かれます。また舟でガリラヤ湖を移動中に嵐を鎮め、ガダラ地方で悪霊に取りつかれた人を癒します。9章前半では、連れて来られた中風の人を癒し、マタイを弟子にし、断食についてヨハネの弟子たちと問答を行います。
◆指導者の娘とイエスの服に触れる女
9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
>>>マタイ福音書で初めて主イエスが死んだ人を生き返らせる話です。死んだ人さえ、生き返らせて下さるに違いないと信じた指導者の主イエスへの信仰がカギを握っています。
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
>>>これに応えて主イエスは指導者の家へと向かいます。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
>>>道中、別の女性が主イエスの服の房に触れます。十二年間患って来た出血の病が、主イエスに触れることさえできれば癒されると信じていました。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
>>>主イエスによって神の御業が実現するためには、この女性の主イエスに対する強い信仰が不可欠だということが強調されています。主イエスなら憐れんで下さると「信」じて、神の御業を「仰」ぐこと。この「信仰」が主の御業につながったと主イエスは強調しました。
9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
>>>笛を吹いたり、声を上げて泣いたり、嘆きの言葉を口にして騒ぐことは、亡くなった人を偲び、遺族に寄り添う当時の習慣でした。その人々に向かって主イエスは少女が死んだのではなく、眠っていると語ったのです。遺族に寄り添う人々が、主イエスの方こそどうかしていると思うのも当然でした。しかし、少女の父親の信仰は人々の常識を翻す奇跡を、主イエスに起こさせていきます。
9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
>>>主イエスは人々に家から出て行ってもらい、少女の手を取り、少女は生き返ります。今回の箇所の重要な点は、癒しを願い求めた者たちが主イエスに対する真剣な信仰を持って、信頼し、行動に移したことです。長血を患っていた女性は信じて主イエスを触ったことで癒されました。主イエスが彼女に手を置いて癒す必要はありませんでした。主イエスは彼女の信仰(主イエスに触ってもらわなくても、自分の方から触っても癒されると信じること)を尊重し、言葉で癒しを行われました。指導者の娘の癒しの場合も、指導者の要望通りに家までついて行き、指導者の期待通りに手を用いて少女の手を引っ張り起こすことで生き返りました。主イエスは彼らの期待していた方法を尊重して御業を行っています。たとえ私たちの信仰が他の人の信仰と違っていても、主イエスは私たちのそのままの信仰を受け入れ、用いて下さる救い主だと示されます。
分かち合いのポイント 主イエスがあなたにふさわしい仕方で祈りに応えて御業を起こして下さった体験を分かち合いましょう。