2016年10月 祈祷会・教会学校 聖書箇所 10/16日 エゼキエル書33章1-11節「生きることを喜ぶ」
総合テーマ 神の臨在を悟る
予備知識…エゼキエル書
・大まかなあらすじは、3章までがエゼキエルの召命、4~24章までがイスラエルに対する預言、25~32章までが諸国民に対する預言、33~48章までが捕囚後のイスラエルとその最後の日々に関しての預言になっています(イラスト早わかり聖書ガイドブック参照)。今回から最後の区分に入ります。
黙想のポイント
・6節までは神がエゼキエルに語られたたとえです。一見すると敵国が攻めてきた場合の内容になっていますが、果たしてそうでしょうか。7節以降を参照し、その意味を黙想しましょう。
◆見張り(口語訳では見守る者)の務め
33:1 主の言葉がわたしに臨んだ。
33:2 「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。
>>>この箇所には違和感を覚えます。またその意味するところを黙想したい言葉が多く登場します。「人の子」とは、「剣を送る」とは、また「見張りは何故一人だけなのでしょうか?」
33:3 彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。
33:4 角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。
33:5 彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。
>>>実際の戦いでは、たとえ見張りが警告したとしても、人々が戦いで助かる保障はどこにもありません。この箇所にも違和感があります。
33:6 しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。
>>>この箇所を理解していく鍵の一つに「罪」が関係していることが見えてきます。
33:7 人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。
>>>ここからはエゼキエルを人の子と呼び、エゼキエルをイスラエルに対する見張り役として任命したことが語られています。見張りの役割は神の言葉を聞き、民に警告を与えることです。そして、民が罪を自覚し、悔い改めることができるように警告することがその役割であると前節の内容から示されます。
33:8 わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。
>>>神はエゼキエルを通して民に、罪を悔い改めない罪人には死ぬこと、つまり滅びることを自覚させたいことを告げます。そして彼らが罪から離れるように語るように命じます。
33:9 しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。
>>>その使命をエゼキエルが果たすことは非常に重要で8~9節に従えば、その責任を果たせば彼も自分の命を救うことができ、従わずに正しく民に宣教しなければ罪人に対する一定の血の責任(命の責任?)をエゼキエルが負わなければならないことを伝えます。
33:10 人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。
>>>イスラエルの民は罪を犯したために神に見捨てられてしまい、もはや生きる希望がなく、死を待つだけだと失望していることが伺えます。その現実をまず民に指摘するようにエゼキエルに命じます。
33:11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
>>>神はエゼキエルに次に福音を語るように命じます。その福音とは神に対して罪を犯したイスラエルを決して見捨てたわけではなく、立ち帰るように(つまり罪を心から悔い改めて神に立ち帰るように)と命じます。罪人が滅びることではなく、悔い改めて神に罪を赦されたことを自覚して生きる者(今回はこれを「人の子」と理解)となることを神が望んでいることを民に告げさせます。
◆結論
今回の個所は、絶望しているイスラエルの民に神が悔い改めるべきことと、神が彼らを決して見捨てたわけではないという福音が語られています。と同時に一足先に神に罪の赦しを受け、神の御心に従って歩んでいるエゼキエルに、自分に与えられている福音宣教の使命を果たすことの重要さを教えています。この箇所には「一人」という言葉がくどいように登場します。その理由の一つとして、6節にも語られるように「彼らのうちから一人の命でも奪われるなら…」つまり神は一人一人の命をかけがえのないものとして大切に思っておられ、死んで滅んで欲しい命などないことを強調するためだと考えられます。
◆分かち合い
11節では「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」というように最後には一つの民族に対しても神は同じ思いを持っておられることが語られます。神はこの章の冒頭6節までのたとえで「ある国」としたのは、そこに「あなたの家族」、「あなたの教会」、「あなたの住んでいる地域」という言葉に置き換えながら、一足先に神に救われているクリスチャンがそれぞれに遣わされている領域で神の使命に生きることを神が望んでおられることが示されているのではないでしょうか。私たちにとっての「ある国」について分かち合いましょう。