3/21日ヨハネ21章1-14節「喜びの食卓」
総合テーマ キリストの受難と復活
黙想のポイント1
・ヨハネが、復活された主イエスとの時間を一つひとつもらすまいと丁寧に書いているのを味わいましょう。
黙想のポイント2
・この箇所にある様々な謎を分級などの時間に分かち合いましょう。
◆イエス、七人の弟子に現れる
21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
>>>合計7人の弟子たちが一緒にいたことになります。
21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
>>>どうしてペトロは漁に行くと言い出したのでしょうか。ただじっとしていて主イエスが現れるのを待っているのも時間の無駄だと思ったのでしょうか。あるいは何か手に職を持って少しでも生活費を稼ぐ必要を感じたのでしょうか。彼らにはもはや差し入れをしてくれる人々は確かにいなかったに違いありません。
21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
>>>主イエスが先に現れ、しばらくじっと弟子たちの様子を伺っているのを想像して下さい。イエスの温かい眼差しが思い浮かびます。
21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
>>>時期を見計らって主イエスが声を掛けます。この会話は五千人の人々に五つのパンと魚で養われた時のことを思い出させます。
21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
>>>夜通し漁をしたが収穫がなかったペトロたちだったが、イエスの指示で舟の右に網を降ろしてみたところ、おびただしい量の魚が取れました。網を船に引き上げることができないほどだったといいます。
21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
>>>ここにも「イエスの愛しておられた弟子」が登場します。7人の中の一人だったことがわかります。なぜペテロは服を着て湖に飛び込んだのでしょうか。裸同然の格好とはどういう格好だったのかによって解釈が違ってくるのかも知れません。また、上着をまとって湖の中に飛び込む理由は何でしょうか?一足先にイエスのところへ行くためでしょうか。恥ずかしくて服を着たのなら、わざわざ湖に飛び込む必要はないはすです。やはり一足先に主イエスのところへ行きたかったものと考えられます。後の文章もそれを裏付けています。
21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
>>>二百ぺキスは90mです。
21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
>>>なぜかすでに炭火が用意されていて、しかもその上に魚がのせてありました。パンもあります。主イエスが用意されたということになります。
21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
>>>153匹という数字は何を意味するのでしょうか。また、通常網が破れてもおかしくないほどの大漁だと表現している理由は何でしょうか。今回の箇所には謎が多く含まれています。
21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
>>>弟子たちが主であるとわかっていたのなら、どうして弟子たちは借りてきた猫のようにおとなしくしているような場面の表現になっているのでしょうか。あなたはどのような場面を想像しますか。
21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
>>>主の晩餐の時の表現と似ています。
21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
>>>復活後のイエスと弟子たちが再会する時はいつも新鮮だったような印象を受けます。一回、一回が特別な再会であるかのようにヨハネ福音書は主イエスとの時間を丁寧に書いているように思います。
祈り…主イエス様、あなたを裏切って逃げて行った弟子たちにやさしく接し、食事を振る舞い、一緒に食べることによって、あなたが彼らを赦し、愛し、家族のように受け入れ続けて下さっていることを示されました。その愛は今や私たちにまで及んでいます。どうか復活の聖霊の力により、私たちも少しでもあなたの愛にならって歩む者とならせて下さい。自ら足を、顔を、手を隣人に差し向け、あなたの愛を実践する者とならせて下さい。あなたの愛と赦しに感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン