ルカによる福音書12章13~21節 「愚かな金持ち」
総合テーマ 罪の赦しがもたらす幸い
・今月のみことばの学びの視点…その1
自分の罪を自覚する時に導かれること
・今月のみことばの学びの視点…その2
他人の罪を裁く時に陥ること
◆黙想のポイント
1.兄弟から遺産を欲した人はなぜ遺産をわけてもらえなかったのか黙想しましょう。
2.その人に主イエスはたとえを通して何を伝えたかったのでしょうか?
【新共同訳】ルカ12:13-21 、31-34
◆「愚かな金持ち」のたとえ
12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
>>>突然に主イエスの前に遺産問題で助けてくれるように頼みこんだ人が登場します。その人がなぜ、遺産をもらえないでいるのかなぞのままになっています。兄弟が巧妙に独り占めしたのか、遺産を隠してしまったのか、遺言か何かによって他の兄弟だけが遺産を相続することになっていたのか分かりません。「わたしにも」の「も」にはもしかすると他の兄弟たちは遺産を分配してもらえた可能性も含まれています。そうだとするとさらになぞが深まります。主イエスに頼み込んだ人は果たして正当に遺産を相続する権利や資格があった人なのかどうかさえ分かりません。ひょっとすると、その人は相続した兄弟とは実の兄弟ではない関係だったのかも知れません。あるいはお金を粗末にする人だったり、すでに多くの借金を家族に負わせてしまっていたのかも知れません。一切このような背景が分からないのがこの場面の特徴です。ただ、明らかなのは兄弟が所有している遺産の一部をその人が欲しいと思っていることと、主イエスならなんとかしてくれるかもしれないと期待していたことです。
12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
>>>当然の返事でしょう。主イエスにそんな義理はないはずです。主イエスへの軽率な依頼自体その人の普段の生き方を想像させてしまいます。しかし、その後の言葉に注目したいと思います。
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
>>>主イエスは今回の主人公の問題の根幹には貪欲があることを指摘しています。貪欲とは本来その人が必要としている以上に何かを欲する心です。そしてこの欲はだれもが影響されやすいものではないでしょうか。主イエスは貪欲が私たちが本来目を向けなければならないものから目をそらさせてしまうことをよくご存知でした。今、主人公が人類の救い主を目の前にしていながら見当違いな役目のために主イエスを利用しようとしているように、貪欲は彼に最も求めなければならない罪の赦しと永遠の命を主イエスに求めることから目を背けさせてしまっています。そんな彼とまわりの人たちに「注意を払い、要人しなさい」と主イエスは言われます。これは細心の注意を促しているようにも受け取れます。また、これは単に財産を初めとするお金のことだけでなく、「どんな…にも」とあるようにどんな類の貪欲にも注意せよという言葉ですから、私たちを本当に大切なものから目をそらさせるあらゆる誘惑(金銭欲、物欲、所有欲、権力、地位、はたまた健康や知識欲)に対しても用心することを主イエスは言われていると考えられます。
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
>>>たとえの場面設定には三つの前提があります。畑の所有者はもともと金持ちだったこと。そしてその人の畑が豊作だったこと。そして次の節で作物の保管場所が足りないほどの豊作だったということです。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
>>>金持ちは今のところ自分では保管さえできないほどの豊作を前にこの事態をどうしたものかといろいろ可能性を探ったということです。しかし、そもそもの考えの出発点は「作物をしまっておく場所がない」という問題意識であり、倉庫がもっと大きければ何も問題がなかったかのような話ぶりです。日頃お世話になっている人々に分けてあげたり、貧しい人々に提供することなど考えにないようです。極めて利己的なこの金持ちの考え方が見えてきます。結局彼の結論はより大きな倉庫に今あるものを立替えるということに収まります。しかも、「そこに穀物や財産を」とあるように、今度はその他の財産も安全にしまっておけるような今まで以上にしっかりしていて立派な倉庫を建てようとしていることが伺えます。まるでこの世で出世し、以前よりも収入が増えていく人々を見る思いがします。
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
>>>金持ちがそうすることによって求めたこととは、長期に渡り安定した何不自由のない生活でした。そして、そのような安心の中で思いっきり贅沢な休みをとって楽しむことでした。こんな願望を私たちも持ったことはないでしょうか。彼が一番したいこととはこのようなことだったことがはっきりしてきます。このような考え方の中に神への感謝や神が何のために彼を金持ちにし、今回のような豊作が与えられたのか考える余地はないようです。そこでついに神の出番となりました。
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
>>>「愚かな者」それが神の視点から見たこの金持ちの評価でした。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
>>>20~21節や後の33節等に、自分に必要上の富が与えられた場合の神の側の目的がはっきりと語られています。それは、他者=つまり隣人のために用いることだと分かります。そして、折角与えられた富を用いて隣人に親切にすることによって神の前に豊かになる機会が与えられている者がそれを自覚せず、自己目的のために用い続ける時、神はそれを他の人の手に委ねざるを得なくなることが語られています。その手段の一つとしてその人の命を奪うことすらあるかも知れないのです。今回の箇所の前の御言葉もこの教えと深い関係にあるようです。
12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。
12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」
12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
>>>これらの教えがなされるのは、11章で主イエスが主の祈りについて弟子たちに教えた後であり、11章13節で「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」と約束され、28節で「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」と教えられた後でした。私たちが目を向けるべきは神の御心であり、その御心をどう忠実に生きるかということです。そして、そのためには聖霊の導きが不可欠です。その聖霊の導きも神が何よりも喜んで与えて下さるとの約束があるのであれば、もはや私たちの側には不足しているものなど何もないことをルカ福音書は伝えているのではないでしょうか。最後に今回の箇所のすぐ後の御言葉にも耳を傾けたいと思います。
12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」