「ヨハネによる福音書」は1世紀末(90-100年)に書かれたと推定されている。そして、その背景には当時のヨハネ共同体とユダヤ人会堂との敵対関係が反映されていることを覚えておきたい。パウロの時代にも敵対するユダヤ人たちが主イエスを伝えるパウロを何とか亡きものにしようとしていたが、そのような憎しみと敵対の関係はその後も続いていたのである。
前回の箇所に引き続くやり取りの中で、ユダヤ人たちは「わたしたちの父はアブラハムです」(39節)と言った。彼らは「信仰の父」と呼ばれたあのアブラハムの子孫であることを誇りに思っていた。アブラハムの物語は「創世記」に収録されている。アブラハムは神の言葉を聞いた時、行く先が分からなかったけれどもその言葉に従って故郷の地ハランから旅立った(創世記12:1-4)。アブラハムは常に神の言葉を聞き、信じて従うという行動を起こした。息子イサクを犠牲としてささげよという言葉を聞いた時、アブラハムは苦悩したに違いない。しかしその言葉に従い、イサクと共に神から示された地に出て行った(創世記22:1-18)。与えられた神の言葉が理不尽なものに思えても、それに従って行動したアブラハムを「父」であると自称する者は「アブラハムと同じ業をするはずだ」(39節)と主イエスは言われた。「あなたがたは確かに血筋においてはアブラハムの子孫かもしれないが、信仰による行動を受け継いではいない」と指摘されたのである。
そして主イエスが彼らの「父」と呼ぶものの存在は44節で明確に「悪魔」と語られる。そのことに気付いたユダヤ人たちは「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」(41節)と反論した。旧約聖書において「姦淫」とは「まことの神から離れて他の神々のもとへ行く」ことを指す。彼らは、他の神々のもとに移ったことはなく、それゆえに「神」を「ただひとりの父」であると主張できると考えたのである。
主イエスは「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ」(42節)と応じられた。ご自身が永遠の存在であり、神のもとから来た存在であるという主イエスの自己理解がここでも繰り返し語られている。そして、「主イエスを愛する者」こそ、「唯一の父なる神を父とする者」なのである。「主イエスを愛する」とは「主イエスの言葉を喜んで聞き、信頼して従う」ことである。そこにおいて主イエスとの人格的な愛の関係が成立し、「神」を「父」と呼ぶ関係もそのところで成立するのである。
ユダヤ人たちの頑なさを前に、「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ」(43節)と主イエスは嘆かれた。主イエスの言葉を耳では聞いているが、その言葉の内にある神の真理を聞きわけることができなければ、神との関係を持つことができない。敵対するユダヤ人たちが主イエスの言葉を聞いていながら分からないという様子は、後にパウロがイザヤの預言(6:10)を引用しながら語ったことに重なる(使徒28:23-28)。主イエスの言葉をただ聞くのではなく、心の目を開いてそれを受け入れるならば本当に癒され救いにあずかることができるにもかかわらず、人はなかなかそのようにしないということは旧約の時代も同じだったようである。パウロはまた、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)と記している。
主イエスはついに「あなたたちは、悪魔である父から出た者」(44節)と明言された。「悪魔」はその「欲望」を満たしたいがために人を殺し、偽りを言う存在であるとここでは語られている。聖書における「悪魔」の描写としては、「蛇の誘惑」(創世記3:1-7)が良く知られている。ここで「蛇」の姿をとった「悪魔」は人間に対して神の言葉を歪めて捉えさせ、神への不信感を植え付け、罪を犯すようにとそそのかす。「蛇」はここで「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(3:4)と言った。「神のようになろうとする」ところに「罪の本質」があり、そのような罪を犯させようとするのが「悪魔」なのである。
主イエスは「悪魔」の実在を的確に知っておられる方であったと言える。公生涯に入られる前に、主イエスもまた「悪魔」の誘惑を受けられた(マタイ4:1-ほか)。そこで「悪魔」は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(4:3)、すなわち、「人々が求めているのはパンなのだよ」とささやきかけた。「《原発》がどうとか、《平和》がどうとかではなくて、まず《経済》こそが大切なのです!」という誘惑のささやきに似ている。更に「悪魔」は主イエスを神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら飛び降りたらどうだ」(4:6)、すなわち、「もし自分を神の子として示したいのなら、手っ取り早いのはここから飛び降りて無事に着地するという奇跡を皆に見せてみることだよ」とささやきかけた。人間の求めるものを熟知しているのが「悪魔」である。確かに人間は「祈ったら急に病気が治る」など、目に見える奇跡を喜ぶ。しかし、そのように目に見える「奇蹟」「癒し」を強調しそこに依存する信仰が長続きしないことも事実である。最後に「悪魔」は「わたしにひれ伏し、わたしを拝め」と要求した。これらの誘惑を主イエスはすべて御言葉をもって退けられた。神のもとから来られた主イエスは、神御自身であるがゆえに、神に逆らい神から人間を引き離そうとする「悪魔」の実在をしっかりと見据えておられたのである。
聖書は「悪魔」「罪」をひとつの実在として捉えている。パウロは自分の中に「住んでいる」存在として「罪」の実在を語っている(ローマ7:19-20)。パウロも自分を神に背かせ御心に反するようにさせようとする罪の力、悪しき者の力を無視することはできなかったのである。我々もまた、神を信じ従って生きようとする時に、そこから引き離そうとする悪の力の実在を知るということを経験するのではなかろうか。「悪魔」が最も狙うところは「教会」であると言われる。しかし、そこにあるのが眠ったような信仰であるなら、わざわざ狙う必要はない。本当に神を愛し神に従おうとするところに、「悪魔」は働きかける。神に愛され、救われ、神の子とされているという約束に留まり、神の栄光のために生きようとする時、「悪の力」はそれを阻止しようとする。
C・S・ルイス『悪魔の手紙』(The Screwtape Letters, 1942)は、悪魔の世界で役職を持つ叔父がまだ悪魔の働きに就いたばかりの甥に語りかける形式で構成されている。その内容によると、人間は「悪魔」に関してふたつの誤謬に陥りやすいという。一つは「悪魔の存在を信じないこと」、もう一つは「悪魔について過度の不健全な興味をおぼえること」である。「悪魔」になりたての甥は、あるキリスト者を「患者」として担当し、懸命に「患者」を神から引き離そうとしている。叔父は甥に助言する。その「患者」の心を、キリストのからだ(教会)と隣にいる人間の顔との間をうろつかせなさい、と。そうして隣にいる人に関心を持つようになると、教会には信仰を持っていてもとても弱い人間もいるということが分かるようになる。そうして「患者」の心を失望させて、いろいろな教会をあちこち行き巡らせて、教会を観察させなさい、と言う。つまり、「教会にコミットする」キリスト者ではなく「一歩引いて教会を外から観察する」キリスト者にしてしまおうというのである。
また、叔父は甥にこのようにも助言する。彼ら(キリスト者)が敵(神)自身に注意を向けている時は、我々(悪魔)の負けである。そうさせない簡単な方法は、キリスト者に「神」ではなく「自分自身」を見つめさせることである。すなわち、「神の恵みに目を向けさせない」ことが「悪魔」の策略だというのである。
主イエスはこのような悪の力を知っておられたからこそ、我々に「主の祈り」を教えてくださった。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ6:13)という祈りの「悪い者」とは中性名詞で表わされた語である。すなわち、それは「人間」ではなく「悪魔」を指す語なのである。「エフェソの信徒への手紙」で語られるように(6:11-12)、信仰の戦いは人間(「血肉」)が相手なのではない。我々を神から引き離そうとする「悪しき霊」に対して常に目覚めていることが大切なのである。
主イエスは「真理」を語られる(45節)。それは単なる学問的な真理ではなく主イエスを通して語られ明らかにされる「神の真理」である。それを信じ、その言葉に留まる時、神との関係・交わりがそこに生まれる。この真理に心を閉ざすならば、それは我々が「悪魔」に「してやられている」ということなのである。