ヨハネによる福音書3:1-15
「ヨハネによる福音書」は、主イエスを信じることは人間側の知識・理性・努力によるのではないと繰り返し語る。復活後の記事にもトマスの記事が配され(20:24-29)、「見て信じる」のが信仰ではないということが強調されている。この「ヨハネの福音書」は主イエスの「十字架と復活」「高挙」、そして「聖霊の授与」を経て、主イエスの振る舞いや語られたことについてヨハネ教団において記されたものである。主イエスを救い主であると信じる群れの中で語られた福音を信じ受け入れることの大切さを示される。時間的な隔たりはあるものの、ヨハネ教団と現在の我々の教会とは、主イエスが復活され、天に挙げられ、信じる者の群れに聖霊が与えられた後の時点に立っているという意味では同じである。我々は今、ヨハネ教団の人々と同じその立ち位置から、このニコデモの物語も聴いていくことができる。
先回学んだように(ヨハネ2:23-25)、目に見えるものやこの世的な事柄によって「信じる」ということでは本当に「信じた」ことにならないのだということを主イエスはご存知であった。主イエスは「目に見えるしるし」にのみ心を奪われて「霊的なしるし」に気づかない信仰を「信用されなかった」(2:24)のである。現実に、「目に見えるしるし」ではなく「天上の事柄」を主イエスがお話しになった時、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(ヨハネ6:66)。もちろん主イエスのなされた奇蹟は大切なものであった。しかし、そのような「しるし」そのものではなく「しるし」が指し示す「霊的な事柄」が更に重要なのである。それは「ヨハネによる福音書」においては、主イエスが「この世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)であるということであり、それを信じる信仰が大切なのである。
今回の物語に登場するニコデモは、「ヨハネによる福音書」にしか登場しない(他に7:50、19:39)。ここでは「しるしを見てイエスを信じた人々の代表」という形で登場している。
ニコデモは「ある夜」(2節)、主イエスを訪ねた。「夜」という時間は「ヨハネによる福音書」において特別な象徴的意味を持つ(cf., 1:5、8:12、9:4、13:30など)。ニコデモは「夜」に、ユダヤ教の暗黒の中から光である主イエスのもとにやってきた。ニコデモは「夜」に、人目を避け、社会の目を避けて主イエスのもとにやってきた。ニコデモの「ファリサイ派に属する」「ユダヤ人たちの議員」(1節)という地位がそのようにさせたのであろう。ニコデモは主イエスのなされたしるしを見て、「この人は普通の人ではなく神のもとから来られ、特別な賜物を与えられて奇蹟を行う優れたラビ(先生)である」と感じた。そして主イエスをそのような意味で、ユダヤ教の優れた教師の一人として尊敬したのである。しかし主イエスはニコデモのそのような敬意にもご自身をお任せにならなかった。
主イエスはニコデモに言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。この「新たに」とは、「新しく上から」「再び」などと訳せる言葉である。主イエスはここで「神の働きによって新しく生まれなおす」「神からの命を頂き、霊的に新たに生まれて生きる」という意味を込めて語られた。
しかしニコデモは、この「新たに生まれる」ということを「生理的に再び生まれること」と捉え、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と問い直す。主イエスは再度「はっきり言っておく」(5節)と前置きし、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(5節)と語られた。ここでは既に「洗礼」が念頭に置かれている。神によって新たに与えられる霊的な命がなければ、神の国に入ることはできない。それは「生まれながらにして教えられた宗教儀式を守り律法を守ることで次第に高められ、神の国に招かれるのだ」というニコデモの信仰理解を否定するものであった。
それでも理解のできないニコデモに向かい、主イエスは更に「霊の働き」を「風」にたとえて説明を続けられた。ギリシャ語で「霊」と「風」とは同一の語である。どちらも目には見えないが全身でその働きを感じることができる。そして「風は思いのままに吹く」(8節)。霊の働きは神の自由な思いによって与えられていくのである。しかしそれでもニコデモは理解することができない。「どうしてそんなことがありえましょうか」(9節)。
11節以降、やり取りは「わたしたち」「あなたがた」という関係性の中で続けられていく。ここでは主イエスとニコデモの間の問答の形で描写されているが、主イエスの言葉は「ヨハネによる福音書」の証言と二重になっており、ニコデモは同時に「ヨハネによる福音書」が書かれた時代の「シナゴーグの指導者」を表現している。つまり、「わたしたち」とは「ヨハネ教団」の人々であり、シナゴーグを中心とした当時のユダヤ人たちが彼らの証言を受け入れなかったという、「ヨハネ教団」と「当時のユダヤ教」との対立構造がここに浮き彫りになっている。このことは現代を生きる我々にも当てはまる。事柄を理性で捉えようとする現代人には、信仰の事柄を証しする我々の言葉がなかなか受け入れられないのである。
12節以下においても更に「新しく生まれること」「霊によって新しい命が神によって与えられること」について語られている。13節から15節においては、生前の主イエスがニコデモに向けて語られたという形で書かれているが、実際に「ヨハネによる福音書」が書かれた時点での「ヨハネ教団」の人々は、既に主イエスが復活後に昇天されたことを知っていて、このような書き方をしている。彼らは既に主イエスの復活と昇天を体験し、信じているのである。そのことを踏まえなければこの箇所は分かりにくい。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」(13節)とあるが、この「天に上った者」とは完了形で書かれている。「ヨハネ教団」の立ち位置は既に復活と昇天を体験した後の時代の信仰者であり、ここでは主イエスの口を通してそれらのことが事実であると伝えているのである。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」(14節)とは、「民数記」の記事を参照して理解することができる(民数記21:4-9)。十字架の上で苦しんで死なれた主イエスは、あの時、旗竿の先に掲げられイスラエルの人々を死から守った青銅の蛇である。すなわちここには、十字架に架けられた主イエスを信じる者は永遠の命を得ることができるというメッセージが語られている。主イエスは人間を永遠の命へと導く方であるということを「ヨハネによる福音書」は繰り返し語る。そしてその中で語られることを信じることで、読む者は永遠の命に招かれていることを示されるのである。