マルコによる福音書14:22-26
この場面における「食事」の背景や意味については、前回学んだ。「過越祭」はユダヤの暦で言うところの「ニサンの月」(太陽暦では3-4月が対応)15日から21日の一週間にわたる祝祭である。そして主イエスは弟子たちと共に「過越の食事」を囲まれた。それは主イエスにとって地上における「最後の晩餐」であった。
その席で主イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え」られた(22節)。「パンを裂く」とは「食事をする」(マルコ3:20)という語と同一であるほどに日常的な行為であり、またそれは家長の役割であった。マルコはこの後に起こる「主イエスのからだが十字架上で裂かれる」ということに重ね合わせ、この場面で「パンを裂く」という表現を用いている。主イエスは「取りなさい。これはわたしの体である」(22節)と宣言し、パンを与えた。キリスト教会における「主の晩餐式」(聖餐式)における制定文はこのところに由来している。
ところで「これはわたしの体である」という文言の解釈は、後のキリスト教会にとって大きなテーマとなった。ローマ・カトリック教会の流れにおいてはこの「わたしの体である」ということを文字通りに受け止める(「化体説」「実体変化節」などと呼ばれる)傾向が強くなった。すなわちミサ(プロテスタントにおける「聖餐式」に相当)においてパンを頂くということは、文字通り「キリストの体を頂く」ということであり、それこそが本当の恵みであり礼拝の中心であるとする。ルターは「実在説」(「共在説」)を主張した。「パン」「ぶどう酒」という物素それ自体が何か別物に変化するのではないが、「その中に」あるいは「その下に」、共にキリストのからだと血が「実在」する、という解釈である。他の宗教改革者たちよりも、ローマ・カトリックに近い解釈であると言える。
ローマ・カトリックの対極にある解釈と言えるのは、ツヴィングリによる「象徴説」である。「パン」「ぶどう酒」という物素は、聖餐式において何ら変化することはない。しかしそれらは主イエスのからだと血を指し示すのである。またカルヴァンはツヴィングリの立場に依拠しつつ、「聖霊によって高められ、神の右に至り、キリストの血と肉にあずかる」場として聖餐式を解釈した(「霊的現臨説」)。ちなみに日本バプテスト連盟の「信仰宣言」においては1947年版・1979年版共に「バプテスマと主の晩餐」を教会の礼典とし、「象徴」「記念」という解釈に重きを置いている。
「主の晩餐式」に与る際、最も大切なことは、それが「信仰」によらなければ何の意味もないということである。主イエスが我々の罪のために十字架で死なれたのだということを信仰を持って受け、命と力をくださった神に対する感謝の祈りをささげるのでなければ、与る意味は何もない。
続いて主イエスは「杯」を弟子たちにお渡しになり、弟子たちは「皆その杯から飲んだ」(23節)。そして主イエスは「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われた(24節)。この「多くの」とは「全人類の」という意味である。旧約聖書の物語において、神はモーセを通してイスラエルの民に律法を与え契約を結ばれた。契約締結の場面でモーセは「血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』」(出エジプト24:8)。主イエスの言葉には、ご自身の流される血が「神との契約の血」であるということが十分指示されており、またその血が「全人類と交わす新しい契約」のしるしであることが示されている。
続けて言われた「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(25節)という言葉は、「これが弟子たちとの最後の食事であること」すなわち「ご自身の死が迫っている」ことを告知している。そして同時に、死を超えて来りつつある神の国に再び豊かな会食の時が備えられているという希望をも告知している。そして「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」(26節)。ここからいよいよ主イエスは十字架への歩みを進めていかれるのである。
主イエスの十字架と復活の後、「主の晩餐」はキリスト教会の礼典として取り入れられ、今日まで世界中で守られている。そこにおいて問われるのは、受ける者の「信仰」である。「信仰」をもって「主の晩餐」に与ることがなければ、そこには何の意味もない。十字架の出来事を想起し、信仰のうちに感謝して「主の晩餐」に与るべきである。パウロが「主の晩餐」について書き記した部分(Ⅰコリント11:23-26)に、『新共同訳聖書』では「記念」という言葉が用いられているが、『岩波委員会訳聖書』では「想起」という語が充てられている。およそ2000年前の主イエスの十字架の死を思い起こし、「主の晩餐」に与る中でそれを「信仰」によって「現在化」していくことが大切なのである。本日の箇所は、同時に並行記事を読みつつ学ぶことができたら良い。