マルコによる福音書12:1-12
主イエスは「たとえで彼らに話し始められた」(1節)。この「彼ら」とは直前の記事に登場する「祭司長、律法学者、長老たち」(11:27)である。エルサレムに入られ、神の御心に沿って神殿で行動を起こした主イエスに対し、当時の指導者たちは「何の権威で、このようなことをしているのか」(11:27)と詰問した。しかし反対に主イエスの問いかけを受け、答えなかった彼らに、主イエスは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」(11:33)と応じられた。しかしその直後に、その彼らに対してたとえを話し始められたことから、この「言うまい」という言葉が彼らへの「拒絶」ではなく「問いかけ」であることが分かる。主イエスは彼らとの関係を断ち切ろうとせず、関わり続けられたのである。
この「ぶどう園」とは、直接には「イスラエル」を指す。神がご自分の働きのために選んだ民であり、彼らは「神の所有の民」「神に属する民」のはずであった。神はご自分の祝福によって選んだ「イスラエル」のために、「垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」(1節)られた。様々な祝福と恵みを用意し、ご自分のものである「イスラエル」を導こうとされたのである。
そしてこの「主人」は、自分の大切な「ぶどう園」を「農夫たちに貸して旅に出た」(1節)。「イスラエル」を導くべき「指導者」に、ひとつの働きを託されたということである。そして「主人」は「収穫」(2節)を求めた。「主人」がこの「ぶどう園」に、すなわち「神」が「イスラエル」に期待する「収穫」とは、「神」が「イスラエル」の民を通してご自身の御言葉と祝福を全世界にあらわし宣べ伝えることであった。人はすべて特別な存在として、創造主である神の御言葉に応える責任を負う者として創造された。そしてまず「イスラエル」の民が全世界に証しをする者として、栄光をあらわす者として選ばれたのである。神を証しし、神の栄光をあらわすことこそ、「イスラエル」に求められた「収穫」の実りであった。
収穫を受け取るために送られてきた「僕」(3節)とは「旧約時代の預言者たち」のことである。旧約時代の歴史は「預言者の迫害史」とも言えるほどのものである。御言葉は拒絶され、預言者は侮辱され殺される。そのようなことが続くのにもかかわらず、「主人」は「僕」を送り続けることをやめなかった。「神」がどんなに「イスラエル」とその「指導者」たちに「悔い改め」を期待し、忍耐と愛をもって関わり続けてこられたかが分かる。
ついに「主人」は「愛する息子」(6節)を送ることにする。しかし「農夫」たちは「ぶどう園を自分たちのものにしたい」という思いから、この「息子」を「殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった」(8節)。神から託されたものを私物化しようとしてしまう、我々の姿があらわにされている。神はすべてのものの創造者である。我々は神が与えてくださったものをもって、神に感謝し栄光を帰すという責任を果たしていくように期待されている。しかし、与えられたものをあたかも自分のもののようにし、思い通りに自分の欲望のために消費していくのが我々である。神の願いに反し、御言葉を語る者たちを拒絶するのが我々である。与えられたものは喜んで受けとり用いてもよいが、与えてくださった神への感謝がなければ、いつの間にか自分たちが生かされている世界を破壊していくことにつながってしまう。
「農夫」、すなわち「イスラエル」の「指導者」たちは、神を信じているものの、神の御心に応えることより自分たちの宗教や神殿を自己満足のために用いるところへ陥った。礼拝も神殿も自己満足のためのものとなり、他者と世界への証しのわざから離れて行ってしまった。「自分たちは神に選ばれた民だ」というエリート意識ばかりが強くなり、他民族を見下すような生き方へ陥ってしまった。「息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった」(8節)という描写は、人間の罪の凄まじさをあらわしている。主イエスはご自分の十字架の死をこのように語られたのである。
このような仕打ちを受けた「主人」は、「農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与える」(9節)ようになる。ご自分の働きのために召されたにもかかわらずその願いに反する「イスラエル」を見捨てた「神」は、新しい「ぶどう園」、新しい「神の民」を立てられる。それは「教会」である。今や「教会」という新しい「ぶどう園」が、神から託せられた働きを行うように期待されている。神の祝福と恵みの赦しを、神の御心を全世界に伝える働きを託せられたのが「教会」である。我々にはこの新しい「ぶどう園」をよく整え、期待されている「収穫」の実を結ばせ、それをお献げするために集められた者である。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(10節)という部分は、詩編118編22節の引用である。「親石」とは建物の一番大切な土台、あるいはアーチの上にはめ込まれ、それがないと全体が崩れてしまうような要石である。「教会」は「神の家」であり、その「要石」が主イエスなのである(cf., エフェソ2:19-22、Ⅰペトロ2:6-9)。この言葉は、主イエスの復活を預言している。新しい「ぶどう園」として選ばれた「教会」は、神に栄光を帰す働きのために、それぞれ預かった賜物を管理し生かさなければならない(cf; Ⅰペトロ4:10-11)。預かった賜物はそれぞれ違い、我々は「自分の力を超えて」ではなく「自分の力に応じて」(Ⅰペトロ4:11)神に仕えるのである。「イスラエル」の過ちは、自分の満足のために終始してしまったことである。神に望みを置き、預けられた賜物に応じて神に仕え神に栄光を帰す。これこそ我々に求められている「収穫」の実りである。