マルコによる福音書 2:18−22
本日の箇所では「断食」という話題が登場する。例えば、「断食」と言えば我々はイスラム教の「ラマダーン」(ヒジュラ暦の第9月、この月の日の出から日没までの間、イスラム教徒は断食を行う)などの宗教的行事あるいは慣習を連想するかも知れない。「断食」の慣習はユダヤ教にも古来より存在した。例えばファリサイ派の人々は週に2回断食を行った。自らの罪を悲しみ神の憐れみを乞うための祈りに集中するため、彼らは禁欲したのである。また、初代のキリスト教会においても「祈り」を伴う「断食」が行われていた(cf; 使徒13:2−3、14:23)。
しかし主イエスの弟子たちは「断食」をしていなかった。そこで人々は「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」(18節)と主イエスに尋ねた。そこで、主イエスは「婚礼」のたとえをもって語られた。「花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」(19節)とあるが、「花婿」とは主イエスご自身を指す。「花婿」が一緒にいる喜びの時である「婚礼」の時に、「婚礼の客たち」は断食することができない。このようにして主イエスは、ご自分と弟子たちや周りにいる人たちとの関係を語られた。また、主イエスはご自身と周りの者たちを「花婿と花嫁」にたとえられたとも言える。「花婿」である主イエスは、結ばれる「花嫁」である我々を大きな喜びの中に迎え入れてくださる方である。主イエスがもたらす「福音」とは、「花婿である主イエスに結ばれる」という喜びなのである。
「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」(20節)と主イエスは続けて語られた。「花婿が奪い取られる」とは主イエスの十字架の死を指し示す。また、我々において「主イエスが見えなくなる時」をも意味する。そのような時、我々は悲しみの中から神の憐れみを祈り求めざるを得ない。主イエスは「行事」「慣習」としての「断食」を求められない。主イエスを信じることは「宗教的形式」「宗教的慣習」ではなく、実に具体的に主イエスと共にあることを喜び、主イエスが見えなくなる悲しみの時には神の憐れみを求めてひたすら祈る生活である。宗教的な行為を含む信仰生活とは、ひとつの習俗の中で型にはめられていくものではなく、あくまでも「神との関係」の中であらわされていくものである。
その事情を、主イエスは更に「布」「ぶどう酒」のたとえをもって示された。当時のぶどう酒は瓶ではなく革袋に入れられた。新しいぶどう酒は発酵力が強く、古い革袋に入れてしまったら破けてしまう。「新しい布切れ」(21節)、「新しいぶどう酒」(22節)とは、「主イエスがもたらす救い」を指す。主イエスとの関係に生きる喜びと主イエスのもたらされた福音を理解するには、「新しい見方」が必要になる。「宗教とはこういうものだ」「信仰生活とはこのように生きることなのだ」という固定化された発想で捉えようとすると、主イエスの福音は分からなくなってしまう。むしろ福音はそのような既成観念を打ち破るものである。
ニコデモの物語(ヨハネ3:1−)は同じことを示している。ニコデモは当時の宗教の代表者であったが、主イエスの言葉を聞いても理解することができず、「どうして、そんなことがありえましょうか」(ヨハネ3:9)と言うほかなかった。既成観念で主イエスの言葉を捉えていては、それを理解することができない。「上からの、聖霊の導き」によって目が開かれなければならない。それが「新たに生まれ」(ヨハネ3:3)るということであり、「新しい革袋」を頂くということなのである。