斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
パウロの生きた時代、お互いに激しい意見を交わし、時には必要以上に相手を非難してしまう民族文化があったと考えられます。パウロとユダヤ人クリスチャンたち両方がその影響を受けていた可能性があります。ある時は強い口調で、ある時は弱々しく語るパウロ。その一方でパウロは、彼の主張の根拠となる聖書箇所を繰り返し挿入して、論理的に語り続けています。長文であるガラテヤ書を書き上げた忍耐と情熱を、合わせて読み取りましょう。
4:8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。 4:9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。
>>>パウロは、異教の神々を信仰していた時のことと律法に従って生きることを、同等に扱っています。どちらも「無力で頼りにならない諸霊」に従うことだと主張しています。様々な日、月、時節、年にちなんだ宗教行事にしばられることもそれに繋がると警告します。私たちにも同じ現実がないかどうか考えさせられます。
4:11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。 4:12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。
>>>「わたしもあなたがたのようになった」とは、おそらく普通のユダヤ人がこれまで守って来た習慣を守らなくなったことを言うのでしょう。従って、ガラテヤの信徒たちも、ユダヤ人のような律法にしばられた生き方を真似ないで、パウロのように律法から自由にされて生きなさいということでしょう。
4:13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。 4:14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。 4:15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。
>>>迫害に遭い、疲れと負傷を負いながらガラテヤ地方に到着したことが伺えます。15節では、パウロが負傷あるいは病気から、目に深刻な問題が生じていたことが示唆されています。しかし、ガラテヤの人々はそのようなパウロを神の使者として、犠牲を払いながら大切に扱ったことが語られています。
4:16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。 4:17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。4:18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。
>>>パウロはなぜガラテヤの諸教会の人々に、このように語らなければならないのでしょうか。パウロの口調から類推すると、ユダヤ人クリスチャンたちがパウロの信仰理解は間違っており、自分たちの方が正しい信仰理解を持っているので、それに従うように主張していたことが伺えます。律法の教えを実践して生きるべきか、それとも律法の教えを異邦人クリスチャンは実践しなくても良いのか。クリスチャンとして生きる上での信仰理解が大きく違っていたと言えます。キリストの福音と旧約聖書をどう両立させるかに戸惑っていた当時の状況が伺えます。
4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。 4:20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。
>>>パウロの無念さが伝わってくるような文章です。命を掛けて福音を伝えたガラテヤの諸教会の信徒たちが、本来あるべき信仰から遠ざかってしまうことに非常な悲しさを覚えつつ、信仰の回復のためにもう一度産みの苦しみを覚悟するパウロ。そして、続く22節でアブラハム物語に登場する二人の女性、長男イシマエルの母親ハガル(子どもを授かるために代理母の役割を果たしたサラの奴隷)と、イスラエル民族へと繋がっていく次男イサクを産んだ、アブラハムの妻サラを引き合いに出しています。主張の根拠となる旧約聖書を繰り返し引用しながら、パウロはキリストにある信仰によって与えられている自由を、忍耐強く伝えようとするのでした。
Malcolm BrookによるPixabayからの画像