斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
今回の箇所は、イエス・キリストの最重要語句の一つである『永遠の命』の理解を深めるための絶好の機会です。あなたは永遠の命をどう理解していますか。他の人にどう説明しますか。律法の専門家と主イエスとでは、永遠の命の理解の仕方に違いがあります。それはどのような違いでしょうか。黙想しましょう。
◆◆善いサマリア人
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
>>>律法の専門家が今回の主役です。これと同じような質問を、18章18節では「ある議員」が「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」としていますので、これは当時宗教的に熱心な人々の間では重要な問いだったと考えられます。
さて、律法の専門家の「何をしたら」という言葉から、永遠の命とは“何かを実践することによって”“彼自身が獲得すべきもの”だと考えていることが分かります。
また、永遠の命は「受け継ぐ」ものだと言っています。すなわち、“現在は手に入れていないが、将来神からご褒美のようにいただけるもの”のように考えていることが分かります。永遠の命とは果たしてそのようなものなのでしょうか。主イエスの返事が気になったことでしょう。
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
>>>主イエスはすぐに答える代わりに、二つのことを確認しました。膨大な聖書の教えの中で、永遠の命について考える上でどの聖書の箇所が重要だと考えているかという質問。そして、その教えを専門家がどのように理解しているかを尋ねました。
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
>>>律法の専門家が選んだ箇所は、ユダヤ人ならばだれもが最初に暗誦する、申命記6章の箇所で、「シェマー・イスラエル(聞け、イスラエルよ)」で始まるモーセの告別説教の中の5節の部分でした。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」。そして、彼はこれに付け加えて、レビ記19章18節にある「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」から、後半部分を選んで彼の回答としたのです。この回答を、マタイによる福音書22章35~40節では、主イエスが律法の専門家にしています。「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」・・・このことから、この回答は、当時の人々に広く受け入れられていた可能性もあります。いずれにしても、この律法の専門家は主イエスと同じ答えをしているのですから、模範解答をしたと言うことができるでしょう。
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
>>>主イエスはすかさずその返答を「正しい答えだ」と返します。その上で、それを実際に実行に移すことこそが大切だと強調します。
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
>>>ここで律法の専門家は何故、自分を正当化する必要があったのでしょうか。隣人愛の聖書の教えを、十分に実践していないと評価されたように感じたからでしょうか。日頃から人一倍真剣に隣人愛の実践を心がけていると自負していた人物だったのかも知れません。そのために、主イエスの言葉に少し自尊心を傷つけられて、正当防衛に走った可能性もあります。いずれにしても、主イエスは彼に隣人愛について理解を深めてもらうために、善きサマリア人のたとえを語ります。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
>>>このたとえの解説については聖書教育誌をご参照下さい。
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
>>>持つべきなのは、「だれが私の隣人なのか」という、自分を起点にして隣人探しをするという考え方ではなく、あなたの関わりや助けを必要としている第三者(それが敵であったとしても)を起点に、自分はその人の隣人になれるのか、という問いであると主イエスは導かれました。これこそ、神の愛、無条件の愛であり、主イエスの愛の本質です。自分をこの世から抹殺しようとした人々のために、十字架に掛かりながらも最後まで執り成し祈った主イエスの姿に、究極の神の愛=イエスの生き方が示されています。
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」。
>>>永遠の命とは、自分が努力して獲得するものではなく、神が与えて下さる主イエスの隣人愛、すなわち神の無条件の愛に生きることだと示されます。主イエスご自身、ヨハネによる福音書5章39節で次のように表現しています。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」主イエスは神の無条件の愛を、人々に見える形で最後の最後まで生きて見せたお方です。私たちがやがて導き入れられる天国とは、お互いが相手の善き隣人となり、相手の必要に真心から献身して生きる世界だと言えます。そのような神の国の住人に招かれている私たちです。この世でどう生きることが神の愛と招きに応えて生きることなのか、考えさせられる箇所です。