創世記32章23~33「太陽は昇った」
総合テーマ 神の祝福のうちに生きる
・今月のみことばの学びの視点…その1 私たちの弱さを用いて御業を行われる神様
・今月のみことばの学びの視点…その2 神様が与えようとされている祝福とヤコブが求めようとする祝福の違いに目を向ける
前回から今回の箇所までのあらすじ… ヤコブはうまく妻たちを説得して家族と財産を持っておじラバンのもとから逃亡しようとします。しかし、おじに気づかれ追いつかれます。しかし、事前に神様はラバンに夢で現れ、ヤコブに手出ししないようにされます。かつてヤコブが故郷を後にして旅立った時にベテル(神の家)という場所において神がヤコブにした約束を思い出します。
「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」創世記28:15
変わらない神様の約束と祝福の中で、ヤコブと家族はおじたちと平和に分かれて故郷に向かうことができるようになりました。途中、神はヤコブに神の御使いによって構成された二組の陣営を見せ、神の変わりないお守りが前途にあることを示して励まします。しかし、ヤコブにはその励ましが届きません。兄が400人の部下を連れてヤコブを迎えにこちらに向かって来ていると聞くと非常に恐れ、怖気づいてしまいます。そして神に命乞いの祈りをします。また、家族を二組に分け、兄から攻撃を受けた際に片方だけでも生き延びることができるように隊列を整え、家族の前にも3つの組に分けて兄への貢物を先立たせます。こうしていよいよガリラヤ湖と死海の中間地点であり、ヨルダン川の右そばにあるヤボクの渡しまで到達し、ヨルダン川を渡る準備が整うというのが直前までの物語です。
今回の物語… ヤコブは家族を先に出発させ、一人後方に残ります。後にペヌエル(神の顔)と呼ばれるようになる場所です。そして夜中に「ある人」と夜明けまで格闘することになります。その「ある人」が何者なのか最初はヤコブには分からなかったということでしょう。いずれにしろヤコブはその人を敵とみなして格闘します。長い時間が経過しますが決着がつきません。実はその相手とは敵ではなく、神の使いでした。神はヤコブの腿の間接を攻撃して闘いを有利に導きますが、それでもヤコブは降参しません。そこで神の人は闘いを止めることを提案しますが、ヤコブは思いがけない言葉を口にします。途中で神の人だと気付いたヤコブは「私を祝福して下さるまでは離しません。」とくいさがります。直ちに神の人から離れる代わりに、ヤコブは自分への祝福を求めます。自分の祝福ばかりを追い求めて来たヤコブの半生がここでも色濃く現れています。そこで神の人はヤコブに名前を聞きます。ヤコブとは「かかと」あるいは「押しのける」という意味がある名前でしたが、神の人は今後はイスラエルと呼ばれるようになると告げます。「神が闘われる」(バプテスト誌参照)、「神が守られる」(同バプテスト誌訳)、「神に寄り頼む」(インターネット参照訳)という意味です。常に自分の知恵と力に頼って来たヤコブでしたが、神の人はそのような生き方を百八十度変えて闘って下さる神に寄り頼む生き方をすることこそ、ヤコブがさらなる神の祝福を受けていくために必要であることを告げます。ヤコブはどんなに厳しい状況の中ででも、常に自分の知恵と力を駆使して勝って来ました。神の人を前にしてもその態度は変わりませんでした。そんな彼を神の人は「神と人に勝った者」と表現しました。しかし、本当は神の人には勝ってはいけませんでした。ヤコブに必要だったのは謙虚さであり、強さよりも神に信頼し、寄り頼むことができる弱さだったのです。 これまでのヤコブ物語を通して、私たちは止めどなく、尽きることのない神の憐れみと祝福があるにも関わらず、それを理解しないヤコブの姿(人生)を見て参りました。すでに神の祝福は十分であるにも関わらず、なおも神の祝福が必要だと思い込んでいたヤコブでした。この姿に私たちは何を学ぶことができるでしょうか。そのことが問われているのではないでしょうか。