ヨハネ19章16b-30節 「ほんとうの王さま」
総合テーマ 受難と復活
黙想のポイント1
・自分がいなくなった後の人々のことを最後まで気遣い続けたキリストと、イエスを拷問し殺しながらなおも人をばかにし続ける人々との間のギャップの中に人間の内に潜む罪の恐ろしさと主イエスの愛の深さを黙想しましょう。
◆十字架につけられる
19:16 こうして、彼らはイエスを引き取った。
>>>ピラトによる裁判の結果、磔にされることが決まった主イエスでした。
19:17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
>>>「されこうべ」とは、人間の頭がい骨を意味する言葉です。従って、ゴルゴタとは頭がい骨の丘という意味になります。公開処刑場を意識した呼び名です。
19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。
>>>キリスト教の絵画にも描かれる場面ですが、イエスが二人の死刑囚の真ん中に磔にされるということは何を意味するのでしょうか。イエスが強盗殺人を犯した死刑囚たちと同等の重罪人だということを意味します。そして、そのような者たちと同じ罰の受け方と苦しい惨めな死に方をしたということを意味します。死刑を執行した当局の立場と思惑から考えると、イエスにそのような死に方をわざとさせたという面と、そのような死に方を他の人々に見せつけたという残酷さが見えてきます。決してあってはならないことが起きたのです。人類史上最悪の冤罪による残酷な死刑執行の犠牲に主イエスは遭ったのです。
19:19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。
19:20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。
19:21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。
19:22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。
>>>ピラトが書かせた主イエスの罪状書きは祭司長たちを苛立たせるものでした。また、死刑囚自身や身内にとっては人をバカにするような失礼な罪状書きでした。仮に祭司長たちの主張が通った場合には、それもまた実際には主イエスが主張していたことではなかったので、やはり偽りの看板になってしまいます。キリストはユダヤ人どころか、全人類の王なのです。この立て札で満足したのは恐らく悪魔だけではないでしょうか。死に臨んでなお、最後まで辱められながら死んでいかれた主イエスの姿が徹底的に描かれています。
19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
>>>これもまた死にゆく死刑囚に見せつけ、「もういらないだろう」とわざとらしく兵士たちが遊び感覚で行ったことでしょう。笑い声さえ聞こえたのではないでしょうか。この世から居なくなる人物への最大の侮辱行為としてなされたのではないかと思われます。
19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。
>>>イエスの母の名前もマリアですから、この中に3人のマリアがいたことになります。
19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。
19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
>>>主イエスは死に直面してなお、自分を生み育ててくれた母マリアを気遣われました。そして、自分の弟子に母を託したのです。主イエスの最後まで毅然とした態度が示されます。また、自分の母親をあえて「婦人よ」と少し距離を置いて語るイエスの言葉からも複雑なイエスの心境を読み取ることができるのではないでしょうか。
◆イエスの死
19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
>>>永遠の命の水を惜しみなく人々に与えることがお出来になるお方、誰よりも「渇く」ことから縁遠いお方が、私たちを救いに導き入れるために肉体的にも精神的にも「渇き」を体験されたことが語られています。この反対の言葉に「満たされている」という言葉を連想します。私たちが真実の愛と命に満たされるために、主イエスは憎しみと復讐に満たされた渇きの杯を飲み干されたのです。
19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。
>>>この酸いぶどう酒はこのような状況の中では喉に激痛が走るような非常に飲みにくいものだったのではないかと考えられますが、一方では痛みを和らげる効果もあったのでしょう。死刑囚だからこそ特別に与えられた残酷なお情けのように思われます。
19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
>>>ある意味では、主イエスはこの杯よりも遥かに残酷なものを飲むことをゲッセマネの園で祈って受け入れられました。人類の罪の汚れに満ちた杯です。この時、まさに主イエスはそれらの一切を象徴する杯を受けて人類の罪のあがないの使命を果たされたのです。
*このあと、主イエスは神の刑罰を受ける黄泉の世界に下って、皮肉にもそこで安息日を過ごされることになります。十字架に掛けられる前の鞭打ちや刑罰、そして十字架に架けられた刑罰は、ともに罪の刑罰の始まりにしか過ぎなかったのではないでしょうか。主イエスにとって、主の日の礼拝の現場から完全に遠ざけられる24時間こそ、最大の苦痛ではなかったでしょうか。賛美と感謝から完全に引き離された呪いと絶望が支配する黄泉における24時間こそ、永遠に感じられる最も恐ろしい罪の罰だったことでしょう。主イエスが私たちの身代わりに背負って下さった罪の罰とはどれほどまでに重く、耐え難いものであったのか。すべての憎しみと侮辱と差別と痛みと苦しみ悲しみとによる涙を滅ぼすために、そしてそのような世界から私たちを救い出すために、神のひとり子主イエス・キリストは全人類の罪を象徴する十字架を自ら背負われたのです。…黙想し、黙祷を捧げましょう。