斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教案誌です。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
主イエスのみことばを信じて実行に移すことに、妨げになるものにはどんなものがあるでしょうか。ペトロたちの場合を参考に黙想しましょう。そして、その妨げを乗り越えて主イエスに聞き従う道を、みことばの光に照らされて歩みましょう。
◆漁師を弟子にする
5:1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
5:2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
5:3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
>>>ゲネサレト湖はガリラヤ湖の別の言い方です。4章を読むと、イエス一行はペトロの妻の実家があるカペナウムで義母を癒やしていることと、ペトロたちの仕事用の舟がある場所ということで、ガリラヤ湖の北部カペナウムの湖畔が今回の場面設定だと考えられます。そこで海上の舟から群衆に語ることによって、押し寄せる群衆から一定の距離をおいて、落ち着いて語ることができるようにした主イエスでした。
5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
>>>主イエスは昨晩、熟練した漁師であるペトロたちが漁をしたにも関わらず、魚が捕れなかったことはご存知だったと考えられます。それにも関わらず、主イエスが沖に漕ぎ出して網を降ろすように指示したとすれば、それは何故なのかと考えさせられます。これから起きることを通して、主イエスはペトロたちに重要な提案をしようとされたと考えられます。それは、これからは主イエスに全面的に信頼し、従って生きる人生への招きです。
5:5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
>>>主イエスが、聖書を通して実行するように招いておられることは多岐に渡ります。その中には実行に移すことをためらうもの、実行に移したくないもの、また実行すべきだと分かっていても実行に移さないまま今に至っているものが数多くあると思います。それを実行に移さない理由はどこにあるのかと、各自が問われます。漁を終えたばかりペトロは、主イエスに漁を諦めてもらうように説得する代わりに、漁をしても魚が捕れるかどうか非常に厳しい状況にあることを伝えた上で、主イエスの言葉に従うことにしました。自分の考えや常識を優先させず、主イエスの言葉に従うこと、そこが今回の肝心なポイントです。
5:6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
>>>この箇所は、私たちに大切な真理を教えています。まず、主イエスが求めておられる服従とは、必ずしもひとりで行う必要はないということです。むしろ、教会の仲間や隣人と協力して実践することが導かれているということです。今回の箇所で言えば、ペトロの舟に乗り込んだ者たちだけでは魚を引き揚げることは出来ないどころか、舟が沈んで、すべてが台無しになる可能性があることを悟り、仲間の応援を頼まざるを得なくなります。その仲間たちの協力を得て、やっとのことで網に掛かった魚を無事に陸に引き揚げることができました。常識では考えられないような大量だったことと、不思議に網が破れなかったことは、そこに神の臨在と御業も働いていたことが示唆されています。主イエスの言葉に服従する時、私たちはより多くの人と共に豊かに神の御業を体験できる恵みへと導かれるのです。ペトロたちが体験したのは、そのような特別な出来事だったと聖書は証言しているのです。
5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。5:9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。5:10前半 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。
>>>主イエスのみことばに信頼し、その言葉を実行に移す者は、しばしば喜びよりも、主イエスに対する「畏れ」と自分の罪深さへの自覚が強まります。これは悪いことではなく、主イエスに従う者にしばしば与えられる、クリスチャンが成長するための大切な成長段階だと聖書は示しています。ただし、この特殊な恵みは、慣れない者にとっては「恐れ」というよりむしろ戸惑いとなり、初めから主イエスの祝福として受け止めることができないことがあります。主イエスを知り始めたばかりのペトロたちは、まだ理解できなかったのも当然です。主イエスは私たちの恐れをも受け止めて下さいます。そして、「恐れ」の心を正しい神への「畏れ」と「平安」で満たして下さることがお出来になる救い主です。
5:10後半 「今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
>>>弟子たちをこのような体験に導きながら「人間をとる漁師」へと主イエスは招いて下さいます。今回の場面からイメージすると、人々を主イエスの元へと引き寄せるお手伝いをすることだと言い換えることができるでしょう。自分の力で主イエスを信じるように人々に福音宣教するというような、非常に高いハードルが示されているわけではなく、キリストの元へと人々を近づける宣教の働きのお手伝い、協力を、主イエスは求めておられるのです。
5:11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
>>>最後にも大切なことが語られています。ペトロたちは主イエスの招きが、一定の覚悟と決断を必要としていることを理解したのです。人生の大きな方向転換であり、これまで大切にして来た価値観、生き方、生活習慣から、全面的に主イエスを中心にしたものに切り替えることが肝心だと理解し、それを実行に移したというのがここで語られていることだと言えます。主イエスのみことばに聞き従う者は、「深み(沖)」へ漕ぎ出すように主イエスは導いて下さいます。共にその深みへと導かれて参りましょう。