2017年7月 祈祷会・教会学校
聖書箇所 7/16 創世記2章4-25節「神さまに造られた人」
西川口キリスト教会 牧師 斎藤 信一郎
総合テーマ 「神の人格と意志」
◆前回までのまとめ
神の存在を忘れ、どの宗教の神が真の神なのか分からなくなった人類に向けて、聖書の神こそ天地創造の唯一の神だと言うことを知らせるために書かれた第1章。続いて第7日目を特別に聖別し、祝福し、一週間の神の御業を顧みながら、感謝と安息に包まれる日と定めた2章1~3節。
黙想のポイント
・一つ一つの節に込められた、人間に対する神の思いを読み取って参りましょう。
◆今回の箇所…
2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、
>>>2章の4節からは、明らかにこれまでとは違う文体と言い回しで話が展開していきます。もともと別の資料だったものを2章4節から採用したからだと考えられています。このような神学的見解はさて置き、神が聖書の最終編集責任者であるとする立場に立ち、最後まで聖書の記述が聖霊の導きによって書かれたとするならば、今回の箇所をどのような視点で読み解くことができるのでしょうか。私は、この違いをテーマの大転換による違いだと受け止めています。1章~2章3節までの中心が「創造主なる神」であったとするならば、2章4節からは創造物である「人間」が中心主題に転換したものと考えます。その重要なヒントになっているのが、最初の4節に登場する「主なる神が地と天を造られたとき」の「主なる神」という表現と「地と天」という表現です。
これまでは常に「神」(ヘブライ語でエロヒーム)と語られて来た創造神を表す言葉が用いられていたのに対し、ここからは「主なる(YHWHで表される聖4文字でヤーウエと読むのが有力視されている神の固有名で『存在』の最上級で書かれている言葉)」と「神(エロヒーム)」を続けて書いた言葉に表現が一転します。「主なる神」とは明らかに私たち人間との関係を前提にした神の名称になっています。
さらにこれまでは1章1節で「天地」が神によって創造されたことが語られたのに対し、この節では語順が逆転し、「地と天」になっています。このことも、これから語られる内容が神中心ではなく、今度は人間に焦点を合わせ、これまでとは逆の視点から神の御心が語られることを読者に印象づける内容と言葉遣いになっているのです。従って、今回の箇所から神が人間をどのような存在として創造されたのかを読み取って行きたいと思います。
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
>>>地上世界の環境が整えられて行くには、神の御業と共に人間の協力が必要だったことが語られます。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
>>>一方で、すでに全地は十分に潤っていて、あとは土を耕す人間の登場を待つのみだと言うことが語られます。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
>>>聖書の表現では、私たち人間は土の成分から作られたことが語られます。そして、何よりも重要なのがその後の表現です。人間が真に「生きる者」となるのは主なる神が「その鼻に命の息を吹き入れられた」時からだということです。人間は生まれる時、息を吸って人生が始まり、死ぬ時、息を吐いて死にますが、その最初の出来事に神は関わりを持っておられることが表現されています。命は神から来るということです。また人生は神の御手によって始まるということです。しかも、聖書的には、「命の息」とは単なる人間の呼吸の事ではなく、「聖霊」を指す言葉でもあります。すると、この箇所はより深い人間理解が示されていて、人間は神の霊を内在してこそ、真に生きた存在になるのだと理解することができます。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
>>>ここで突然に登場する東という方角は、恐らく聖書の中心地であるイスラエルを基準にした場合の東の方だと理解できます。つまり、最初に創造された人間はイスラエルにではなく、どこかそれよりも東の方に特別に作られたエデンの園に住まわせたということになります。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
>>>最初の人間が住むことになった環境はどんなに素晴らしい場所だったことでしょうか。「見るからに好ましく」つまり美的欲求を持たし、食欲を誘う果樹に満ち、それらの味も栄養も最高のものであったことが表現されています。一方では、この後で問題となってくる「命の木」と「善悪の知識の木」がエデンの園の中心に意図的に置かれたことが語られています。<その目的について後で共に考えたいと思います>
2:10 エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
2:11 第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。
2:12 その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類やラピス・ラズリも産出した。
2:13 第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。
2:14 第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。
>>>黙示録の最後にも登場する命の水の川と同じような情景ですが、創世記では4つに分岐しています。第一の川ピションと第二の川ギホンがどこのことを指すのか、現在ではわかっておりません。ただし、第三と第四の川はイスラエルの北東方面に流れるチグリス・ユーフラテス川だということから類推して、当時ペルシャ湾の河口付近に流れ込んでいた川だったと考えられています。
聖書に初めて登場する川がどこを指すのか、興味が尽きませんが、それ以上に重要なのがそのような川付近から貴重な貴金属が取れたという記述です。金は言うまでもなく、人類に最も貢献し、また影響を及ぼして来たものの一つです。経済に、芸術に、医療に、電子機器等に用いられて来た価値ある存在です。琥珀やラピスラズリも装飾だけでなく、漢方や精神安定、また宗教行事に貢献してきた貴重な天然資源です。
これらのことより、天地創造の初期段階からすべてのものが神のご計画の中にあって、後の人間生活のために豊かに準備されていたことが語られます。
2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
>>>前節までの準備が整えられた上で、神は最初の人間をエデンの園に連れて来られ、そこでの使命を果たすようにされたことが語られます。人間は初めから神の任務を与えられてこの世に生きる存在とされているのです。神の使命に生きることこそ、人類が忘れてはならないことだと示されます。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
>>>人類には当初から極めて単純かつ重要な掟も与えられていました。園の中央にある特別に神に属する木である善悪の知識の木の実を勝手に取って食べてはいけないということでした。この戒めを守ることは、神を神として信頼し、服従することを意味し、人間が神の世界で幸せにいつまでも生き続けるための絶対条件そのものでした。また、この神との信頼関係を破ることはまさしく滅びへと通じる絶対に避けるべき選択を意味していました。神はあらかじめ、丁寧に人間が幸せに生きるための基準と不幸になる道について教え、警告されたのでした。
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
>>>聖書の神は関係性を大事にされる神です。人間があらゆるこの世の生き物と豊かな交わりをすることを願い、様々な生き物を創造し、人間の元へ連れて来ます。
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
>>>神ご自身が第1章で創造したものに名前を付けて行かれたように、人間にも生き物たちに名前を付けさせます。名前を付けることができるということは、人間にも神の持っておられた能力の一部が分け与えられていることを意味します。神が創造された一つ一つの存在が持っている特徴などを分析し、どのようにこの世界で貢献できるのか、物事の本質を見極めていく能力が人間には備わっていることをこれらのことは物語ります。また、名前を自ら付けさせることで、その存在に対する愛着や関係性が深まって行ったことでしょう。聖書の神は人間にご自分の働きに参与させて下さる神なのです。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
>>>この箇所が伝えていることは、最初の人間が神の命令通りに作業を進めたものの、当初の目的の一つであった、最初の人間=アダムに合う助ける者が見つかりませんでした。そもそも「助ける者」とはどんな存在を意味するのでしょうか。この後の物語の転開から少しずつ見えて参ります。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
>>>この箇所が物語っていることを理解することは人間理解に置いて非常に重要です。神はかつてアダムを土で形づくった時と同じように相方の女性を造ることはしませんでした。彼と張り合うことができるライバルを創造することは、神が考える「助ける者」ではなかったのです。神がここで行っていることは、最初の人間アダムのダウングレード、つまり完全体のアダムを不完全にしてしまうことでした。中東ではあばら骨というのは古代世界において人間の魂が宿る最重要の部分でした。そのような部分を一部失うことは、決定的な障害を負うことを意味しています。果たして、それまでよりも不完全にされたアダムの反応はいかなるものだったと聖書は語っているでしょうか。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
>>>アダムは自分がそれまでよりも、不完全になったことを悲しむ代わりに、これまで見せたことのない喜びの感情を表に出して神を賛美し、自分に与えられた女性の存在を喜んだことが語られています。まるで詩人のようなアダムの喜びの言葉ではないでしょうか。人間が真に幸せになるためには、他の人よりもどれだけ優秀な存在になるかということが問題ではないのです。互いの違いと能力を尊重し合い、助け合う人間関係こそ幸福の絶対条件なのだと聖書は示しているのです。
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
>>>ここにはさりげなく結婚の奥義が示されています。もちろん、最初の人間アダムとエバに両親がいたはずがありません。「父母を離れ」るとは、自分がこの世に生まれて来た原因と理由(元をたどれば神だと言うこと)を理解して、両親から精神的に独立して神の使命に自発的に生きる者となることを意味します。「結ばれ」るとは、人間はだれもが不完全な存在であり、互いに赦し合い、受け入れ合い、支え助け合って生きるべき存在だということを自覚し、しっかり精神的に成熟してから結婚すべきことが語られます。それから「一体となる」、すなわち性的な関係を持つべきことが語られています。聖書の基本的な倫理概念がさりげなく、明瞭に語られている部分です。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
>>>最後の言葉も3章につながる重要な言葉です。神によって創造された最初の人間はお互いに見られて困るような部分や、恥じて相手に隠し立てする必要があるような心や物を一切持っていなかったことが語られています。神に対しても、お互いに対しても罪の意識を全く持つ必要がない平安な心の状態を表しているのです。
最高の環境の中で、最高の相手や生き物たち、そして何よりも神と共に生きることが赦された最初の人類がこうして誕生したことを神は私たちに示して下さいました。
分かち合いのポイント
・あなたが心に残った今回の箇所はどこでしょうか。互いに分かち合いましょう。
・互いに不完全であることを喜び合うために、現代に生きる私たちに必要な信仰とはどんな信仰なのか、分かち合いましょう。