3/06日ヨハネ16章25-33節「わたしはひとりではない」
総合テーマ キリストの受難と復活
黙想のポイント1
・25~26節の意味を黙想しましょう。具体的には何を主イエスは預言しているのでしょうか。
黙想のポイント2
・30~31節の意味を黙想しましょう。具体的には何を主イエスは預言しているのでしょうか。
今回の説き明し(>>>)を読む前に各自で黙想してから読むと良いでしょう。
また、今回の箇所は本来16章の初めから読まないといけない箇所だと思います。各自で事前に読んでおかれることをお奨めします。
◆イエスは既に勝っている
16:25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
>>>聖霊降臨後のことを言っているものと考えられます。今回の箇所の少し前、7節と13節に次のような聖霊に対する主イエスの言及があります。
・7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」ここで語られている弁護者(口語訳・新改訳では助け主)とは聖霊を指します。
・13節「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」ここで語られている真理の霊も聖霊を指す言葉です。このことを念頭に主イエスは語っておられると考えられます。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
>>>「その日」とは、つまり聖霊降臨日以降を指すと考えられます。そしてこの箇所の意味は、預言者やモーセ、あるいは祭司などのようにだれか特別に神に立てられた人を経由して神に祈っていた時代は終わりを告げようとしていることを主イエスは語っているのです。その時代が今も続いており、私たちは主イエスの名によって祈るようになりました。実は普段意識しないでいるかもしれませんが、私たちはこの箇所の通りに祈っているのです。クリスチャンならだれもが祈りの終わりに「主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン」と祈るのはこの箇所が根拠になっているのです。
16:27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
>>>私たちに主イエス・キリストが約束された聖霊が与えられるためには、キリストがここで語られているように条件はただ「わたしが神のもとから出て来たことを信じ」ることです。主イエス・キリストが神から遣わされたあなたのための救い主と信じ、受け入れること、そうすればキリストの約束通りに聖霊が与えられるのです。聖霊こそ、キリストの教えを理解させる真理の霊であり、その教えに実際に生きることができるように導いて下さる弁護者(助け主)なのです。
16:28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
>>>主イエスは間もなく死んでこの世を去って父なる神のもとへ行くことを再度予告されました。
16:29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
16:30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
>>>???この日本語の文言では意味が通じません。主イエスに「だれもお尋ねする必要のないこと」ではなく、主イエスは「だれにも(あなたが)お尋ねする必要のないこと」とすると意味が通じるようになります。…ちなみにギリシャ語の原文で検討してみると、このような解釈もできるのではないかと個人的には思うのですが、口語訳と新改訳聖書も新共同訳聖書と同じ訳し方をしていて、「だれも(イエス)にお尋ねする必要のないこと」という意味で訳しています。そのため、実際にはどう解釈すればいいのか疑問が残ります。
16:31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
>>>弟子たちが「今、分かりました。」と述べたことをどのように受け止めたという意味でしょうか。肯定的に「ようやく信じるようになったのだな」という意味か、それとも否定的に「今、本当に信じるようになったのか」という意味なのか、それとも両方の意味を込めて「まだ不完全だが、ようやくそこまで今信じるようになったのか」という意味で語ったのでしょうか。
16:32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
>>>主イエスはすでにゲッセマネ園で起きる出来事を理解していたようです。
16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
>>>弟子たちが平和を得るために、このように主イエスは前もって語っておられると語ります。逆に言えば、弟子たちが平和を奪われるような出来事が間もなく起こることを主イエスはくどいくらいに語っています。どうして、このように語っておくことが弟子たちに平和をもたらすことになるのでしょうか。少し考えないとピンと来ない場面です。やがて主イエスが捕えられて、十字架に付けられて処刑されるという最悪の出来事を、主イエスが前もって理解しておられ、それが神の御心であることを確信して自らそれを受け入れておられたことを弟子たちが理解するためだったと考えられます。主イエスが処刑される出来事は、単なる不幸な最悪の事態だったのではなく、主イエスが避けて通れない神から与えられていたキリストとしての使命であることを理解していく手助けになっていくからだと言えるのではないでしょうか。主イエスはこれからどのようなことに直面することになるのか、覚悟の上で歩んで行かれるのかを承知の上で神から託されていた使命を実行して行こうとされていたということです。
そして、主イエスは弟子たちに宣言されます、「わたしは既に世に勝っている」と。その意味は主イエスが最初から悪魔とその誘惑に勝ち続けて来たという意味であり、今後も勝ち続けるという保証の言葉でもあります。だから、たとえこの世で苦難に遭うとしても、主イエスに信頼し、勇気を持ってどんな苦難にも立ち向かいなさいと励ましておられるのです。主イエスにある者にはこのキリストによる平和をいつでも見出すことができるという事実を今週も体験して行きましょう。