ヨハネ11章1-27節「死で終わらない」
総合テーマ 命の輝かせ方
黙想のポイント1
・25~26節の主イエスの言葉の意味を黙想しましょう。
黙想のポイント2
・27節のようにマルタが応えた意味を黙想しましょう。
◆ラザロの死
11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
11:2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
>>>ここで語られている香油の話しはこの後の12章に登場します。
11:3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
>>>主イエスは「この病気は必ず治る」とは言われませんでした。代わりにはっきりとラザロが死ぬことを前提にした言い方をしています。ラザロが死ぬけれどもそれで終わらないという具合に。そして、このようなことが起きるのは神の栄光が現されるためだと言います。
11:5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
>>>三人ともそれぞれに主イエスは愛しておられることがこれらの表現で分かります。1節ではマリアが強調され、3節ではラザロが、そして5節ではマルタという具合に。
11:6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
>>>この遅い出発も主イエスのご計画の中にあったことが後で分かります。
11:7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
11:8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
>>>エルサレムに戻ることはもはや命がけのことになることを弟子たちは理解していました。
11:9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
11:10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
>>昼と夜は何を現しているのか?
11:11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
11:12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
11:13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
11:14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
11:15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
>>>ラザロがすでに死んでしまったことと、主イエスがこれから彼を死から生き返らせることを弟子たちに理解させるために「ラザロが眠っている=死んでいる」ことと、「わたしは彼を起こしに=生き返らせに行く。」と言われました。主イエスこそ、死に打ち勝ち、命を支配しておられる救い主だと言う確かなしるしをそこで行うためだということが語られています。
11:16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
>>>主イエスが非常に重要な教えを語られた後でしたが、トマスや弟子たちはどこまでそれを理解できたのか定かではありません。主イエスの言葉を聞いてトマスはベタニアに行って主イエスと共に死ぬかも知れないという覚悟だけは持ったことがわかります。
◆イエスは復活と命
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
>>>主イエスがベタニアへの旅を急がなかったために、イエス一行がベタニアに到着したのは結局ラザロが死んで、葬儀が行われ、墓に葬られてから4日が経ってしまいました。そのため39節でマルタが「もうにおいます」と語っているように、ラザロは死んで体のすべての機能は停止しただけでなく、腐敗が進んでしまったことが表現されています。一時的な心肺停止や仮死状態から生き返ったというレベルではなく、正真正銘ラザロが否定できない仕方で死んでしまったことが明らかにされています。もはや生き返るはずがない状態の人で墓に葬られて4日経って身体の腐敗がすでに進んでしまっていた人が生き返ったのです。
11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
>>>1スタディオンとは185mのことです。従って15スタディオンは約2.8kmということになります。
マリアは兄弟が死ぬ前に主イエスが駆けつけて下さり、病気を癒して下さるに違いないとの期待を裏切られて意気消沈していたのかも知れません。マリアの落胆ぶりが伺えます。しかし、マルタは違いました。かくも強く、深いマルタの主イエスへの信仰と信頼に学びたいと思います。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
>>>ここまではマリアと同じだと思います。しかし、この後の言葉がマルタの信仰姿勢を明確にしています。
11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
>>>つまり、マルタはまだ兄弟が生き返ることを諦めていないのです。
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
>>>この主イエスの言葉の真意を確かめるべく、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
>>>いずれ、この世界は神が定めておられる「終わりの日」に人類の最初期の人間を始め、この世に生を受けた後に死んでしまったすべての人間が復活して=神の御前に生き返らされて裁きを受けていく日のことだと考えられます。マルタは主イエスがこのことを言っておられるのか、それともマルタの期待通りに今、ラザロを生き返らせて下さるのか判断に迷ったのではないかと思います。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
>>>主イエスはマルタの疑問に直接答える代わりに、新約聖書の中でも極めて重要な信仰理解をマルタに示されました。「わたしはラザロを今、復活させる」という代わりに、主イエスそのものが「復活」であり「命」だと言われました。キリストには人を復活させる力があるとか、キリストには命を与える力があるというのとは厳密には違って、主イエスそのものが復活と命の根源だという表現になっています。
*このことを理解するために聖書の始めの書である創世記の最初の世界創造の箇所とヨハネ福音書の第1章の冒頭部分を参照する必要があります。この世界はなにもない(無あるいは死の)状態から光(無から有が生じるあるいは命)が生じています。この根源が主イエスそのものだということを聖書は表現していると考えられます。主イエスは命を分け与えるお方というよりも命を生み出す根源的な存在者だと言った方が正しいのかも知れません。太陽が太陽光を生じさせているように、主イエスは命を生じさせている根源的な存在だということです。
>>>そして主イエスがこの会話で強調していること、また私たちが神が与えたいと望んでおられる真の命=祝福=イエス・キリストを受け取るためには「わたし(=イエス・キリスト)を信じる」信仰がカギを握ると語っておられます。キリスト教の最重要テーマがここに表現されています。イエス・キリストこそ神がわたしやあなたに与えたいと願っておられる人生で最も価値があり、必要不可欠な根源的存在なのだという教えです。これを神からいただく唯一の方法にして、確実な方法は「主イエス・キリストこそ、私が人生の中で最優先に信じて、すべてを犠牲にしてでも従うべき唯一の存在」だという理解に至ることだと言えます。
主イエスがマルタに語っておられることとは…「私は人間を本当の意味で生かす存在であり、私と正しい関わりがあることこそ生きることに他ならない。私と正しい関係の中にある者はたとえ肉体的にはやがて死が訪れても、天国において私と生きることになる。そのためにも「生きていて=この世にいる間」に私への確かな信仰を持つことが肝心だと語っておられるのです。
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
>>>メシアとはキリスト=救い主を意味する言葉です。マルタがどれだけ前節の主イエスの言葉を理解しているかは定かではありませんが、少なくとも明確にイエスが神の子、キリスト(メシア)だということは信じていたことが分かります。であれば、マルタはイエスにはどんなことでもできると信じていたことがうなずけます。何と強い信仰でしょうか。これほどまでにだれかを信じることができることに希望を感じます。そして、私たちにもこの信仰を持つように神は招いておられるのです。