ヨハネ福音書 13章1-17節 「互いに足を洗い合いなさい」
総合テーマ 命の輝かせ方
黙想のポイント1
・互いに足を洗い合いなさいとイエスは語ります。洗う側、洗われる側のそれぞれの役割、必要な心得について分かち合いましょう。
黙想のポイント2
・今回の教えは教会で行うバプテスマに通じます。互いにその理由を考えてみましょう。
◆弟子の足を洗う
13:1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
>>>レオナルド・ダビンチの絵画でも有名な主の晩餐の時を迎えました。ここでこれからイエスが行うことはこのこの上なく愛情が込められた出来事であったことが語られます。
13:2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
>>>イエスの愛の対象は自分を裏切る思いをすでに抱いていた十二弟子の一人、イスカリオテのユダにも向けられていました。主イエスの愛の本質、無償の愛がここにも表れています。愛する主体は自分、そして愛する対象にはこの世に存在するすべての人でした。私たちも含まれます。
13:3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
13:4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
>>>主イエスのこの行動は通常決して見ることができないものだったことでしょう。弟子たちはこれから何が起きようとしているのか見守ったのではないでしょうか。
13:5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
>>>そしてイエスが行動に移したことは通常召使たちが行うことでした。たらいに水を入れるところから始め、単に足を洗うだけでなく、丁寧に弟子たちの足を手ぬぐいでふくところまで、すべてを召使がするのと同様にされたのです。主イエスはそれをイスカリオテのユダを含めたすべての弟子たちに行っていかれました。
13:6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
>>>ペトロのこの質問は恐らくほかの弟子たちもしたかったことだったのではないでしょうか。ただあまりにも突然のことだったこと、そして意表を突くことだったので、どうしていいかわからないでなすがままになっていた弟子たちもいたと思われます。それほどまでにイエスは真剣で特別なこととして弟子たちの足を洗っておられたことは容易に想像できます。そして、一人一人の足を洗う主イエスの手にはどれほど愛情が込められていたことでしょうか。かつて少年少女会で洗ってもらう方は目隠しをし、洗う方はイエスの気持ちを想像しながら丁寧に相手の足を洗う洗足体験会をしたことがあります。実体験してわかる様々なことを互いに後で分かち合いました。最初は戸惑いが確かにあります。しかし、次第にそれが変化していくのです。そこには相手のことを身近に感じられる特別な時間が流れていました。
13:7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
>>>ペトロの質問にイエスは後で分かるようになると言われました。主イエスは弟子たちの足だけでなく、全人類の罪を洗い清めるためにこれから十字架に向かって行かれようとしていたのですから…
13:8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、
>>>ペトロはイエスが言われたことを理解できず、また十分理解しようともせずに拒否しようとしました。もちろん、ペトロには彼なりの理由があったことでしょう。敬愛する自分の恩師にこのようなことをしてもらうわけにはいかないという思いや、実際に汚れていたり、臭うような足であったために非常に気が引けたのかもしれません。みなさんも恐らくご自分の教会の牧師などに同じように足を洗ってもらうことをためらう人は多いのではないでしょうか。ところがこの後のイエスの答えが彼の度肝を抜くようなものでした。
イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
>>>だれがこのような返事を予想できたでしょうか。イエスの行為を彼が拒否することは絶縁を意味していたのです。それほど重要な意味を込めてイエスが彼らの足を一人一人洗っておられたことに一同は驚いたことでしょう。このように言われた時のペトロの変貌ぶりは彼らしいものでした…
13:9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
>>>それなら話しは別です、と彼は他の弟子たち以上にイエスに洗ってもらいたいという意志を示しました。
13:10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
>>>弟子たちは既に主イエスに自分の人生を委ね、神の御心に生きる方向転換をし、イエスの行くところについていき、その教えに従い続けていた者たちでした。それはバプテスマを受ける時の本質そのものだと言えるでしょう。またヨハネ福音書の第4章にはイエスの弟子たちが他の人々にバプテスマを授けさせていたことが語られています。当然弟子たちもバプテスマを既に受けていたことでしょう。「既に体を洗った者」とは先に述べたようにバプテスマを受けたことと、生き方において人生をイエスに委ねて従い続けている者を指すと考えられます。しかし、それでも弟子たちは完璧にはイエスに従い通すだけの信仰力と行動力が兼ね備わっていたわけではありませんでした。当時の人は特にそうだったと考えられますが、草履のような履物をはいてほこりまみれの道を歩けば、当然外出の度にどうしても足は汚れてしまうものでした。同じように、この世で様々な人々と接触しながら生きている限り、心が少なからず汚れてしまうのは避けられないとイエスは言われるのです。他の人に対して様々な間違った感情を抱いたり、自己中心的な思いにすぐに影響されやすいのが私たちです。そして、それは救い主イエスによって清めていただけることなのですが、それを必要とは考えず、またそれに頼らないで自分勝手に生きることを選択する時、ペトロ、そして他でもないユダの過ちに陥っていくことがここで警告されていることなのです。ペトロはすぐに自分の過ちを認めることができましたが、同じくそこにいたユダはこの時のイエスの言葉を自分への言葉として残念ながら受け取ることができませんでした。
13:11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
>>>ユダのためにも心を込めて足を洗ったイエスでしたが、主イエスに心が正しく向いていない者には折角の行為も無駄になることがあるのです。反面教師としてここから学びたいと思います。主イエスの十字架のあがないが誰のためのものだったのか、すなわち「このわたしのため」だったことを日々繰り返し新たにすることの大切さをイエスは弟子たちに身を持って最後に教えておられるのではないでしょうか。
13:12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
>>>このようにイエスが言われるからには、私たちもここでイエスがなされたことの意味を理解する必要があるということです。あなたは今回のことを正しく受け止められたでしょうか。そうでなければ、私たちにもペテロにイエスが語られた言葉が当てはまることになります。即ち「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」ということです。ユダも受けたバプテスマですが、形式だけのバプテスマではなく、聖霊によってバプテスマを授ける主イエスの真実のバプテスマを受けることがいかに大切かということが語られています。ただし、ご安心下さい。弟子たちも完全にはイエスの今回の教えをすべて理解したとは到底思えません。このことを実際に理解し、イエスの期待通りに生きるためにはイエスが語られる聖霊の助けが必要不可欠なのです。また、次に語るイエスの教えを理解していく必要がありました。
13:13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
13:14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
>>>主イエスが自ら行ったことは、実は私たちが互いに行うべきことの模範だと言うのです。イエスのように誰かの足を洗うためには、自分の足を勇気を出して相手に委ね、差出す人が必要です。また、自分の差出す足を嫌がらずに受け止めて洗ってくれる人の両方が必要なのです。それこそ教会の役割だと言うことができるのではないでしょうか。互いに罪や弱さや悩みを告白し合い、受け止めて、祈り合い、赦し合い、励まし合うこと。このことが日々行われるのがキリスト教会だと言えるのではないでしょうか。教会はこのような意味で、いつも悔い改めの言葉が交わされ、福音の言葉が交わされていく場所でもあります。
13:16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
13:17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
>>>聖書の教え、またキリストの教えを理解することも大切ですが、本当の幸いはその教えを実行することによって私たちのものとなります。今回の教えを確実に私たちのものとし、幸いな教会とイエスに認められるよう、互いにこの教えを実行する教会になっていきましょう。教会で行うバプテスマ式とは実はこのような意味が込められたものだということをあなたはご存知でしょうか。バプテスマ式が教会で行われる度に実はイエスのこの教えが教会全体で実践され続けています。そのことも感謝したいと思います。まずあなたも主イエスを救い主として受け入れ、罪を認めて信仰告白し、バプテスマを受けることによって足を洗われる側になって下さい。そこから主イエスとの真の関わりが始まるのです。