ヨハネ12章20-26節 「栄光を受ける時が来た」
総合テーマ 命の輝かせ方
黙想のポイント1
・ギリシア人たちの面会希望の知らせが主イエスに「人の子が栄光を受ける時が来た」と判断させるきっかけになっているようです。その理由は何でしょうか?
黙想のポイント2
・24~26節の主イエスの言葉の意味を黙想しましょう。
◆前回の聖書教育誌の聖書箇所11章(イエス、ラザロを生き返らせる)から今回までの間の出来事
イエスを殺す計画 >ベタニアで香油を注がれる >ラザロに対する陰謀 >エルサレムに迎えられる
◆聖書教育誌の聖書の学びにおける「解釈のポイント」と「話し合いのポイント」を花小金井教会の藤井秀一牧師が分かりやすく取り上げて下さっています。是非ご参照下さい。なお、ウイリアム・バークレーの注解書の方は何故ギリシア人がここで登場しているのかについて興味深い解説をしています。こちらもご参照下さい。
12:20 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。
>>>バークレーの注解書によればギリシャ人はとても好奇心が旺盛で、ギリシア人が初めて他の世界を見分するために旅行を始めたという説があるそうです。それ以前は行商や何等かの重要な目的がないと旅はしなかったようです。これをヒントに考えるならば、それまでは遠距離の旅には命の危険が伴うのが常識だったということ、それがローマ帝国の支配する時代になってある程度の旅の安全が確保されるように時代が変わったからだと考えられます。
12:21 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
>>>なぜフィリポを紹介する時にいつもベトサイダ出身と言うのか不思議です。バプテスマのヨハネがヘロデによって殺された時に主イエスはベトサイダに退いたと言われます。このこととも何か関係があるのでしょうか。ベトサイダは領主フィリポが支配していた地域でしたので、それと何らかの関係もあるのでしょうか。十二弟子の中のフィリポとアンデレは何故かギリシャ語名です。これらと考え合わせると、ベトサイダという町は異邦人が非常に多い町であったと考えられます。ガリラヤ地方の中でも特に多かったため、ギリシア語名で最初から呼びあった方が便利な町だったのかも知れません。ギリシア人たちがフィリポをまず仲介人にしようとしたのは、彼らにとってフィリポが馴染みのある名前だったからなのかも知れません。様々に想像を駆り立てられる箇所です。
12:22 フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。
>>>フィリポは同じくベトサイダ出身でまた彼同様にギリシア語名で普段から呼ばれていたアンデレに相談の上で主イエスにギリシア人たちの面会申込みの話しを伝えました。
12:23 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。
>>>これまでいつも「私の時はまだ来ていない」と言うような表現で話されていた主イエスがギリシア人たちが会いたがっているということを聞いた途端に「時が来た」と理解したのにはどんな理由があるのでしょうか。きっと旧約聖書にヒントがあるのではないかと考えられますが、私にはまだ見当もつきません。どなたか教えていただければと思います。この言葉はもちろん、十字架に架かって人類の罪のあがないをする時が来たことを示唆していると考えられます。
12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
>>>24節の出だしはこれまでもしばしば登場した「はっきり言っておく」から始まっています。特に重要なことを主イエスが語る時に登場するいい方です。原文では「アーメン、アーメン、あなたがたに言います」と言う文です。そして、この後に続く言葉は明らかに十字架にかかって死ぬことが表現されています。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
>>>聖書教育誌も注意を呼び掛けているように、この箇所を自死の根拠にしてはならないということは言うまでもありません。「この世で自分の命を憎む人」とはどんな人を主イエスは指して語っているのか、それは他の聖書の箇所と合わせて考えるならば、自己中心的な人生の目的を神のご計画よりも優先して生きようとする人が「自分の命を愛する者」であり、神の御心と使命のために自己を犠牲にできる人が「自分の命を憎む人」ということになるのではないでしょうか。キリストもまさに神の使命と人類の永遠の命のために自分の命を憎んだ人と言えます。
12:26 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
>>>最後まで難しい言い方が続きますが、なんとかついて行くことにします。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」とは当たり前過ぎる言い方ですが、キリストに従う前提が神の使命のために自己を犠牲にできることですから簡単ではありません。それでも主イエスは私たちに従うように招いておられます。主イエスに従うことの最大のメリットとは、常に主イエスのそばにいることになると言うこと。そして父なる神もそのような人を大切にして下さるという結論になっています。これ以上に重要なこと、そして価値あるキリストに従う理由はないはずですが、私たちはこれが案外実行し続けることが難しいことを知っています。
この単純明快な主イエスの招き、そしてこれが神の招きなのですが、それに命を懸けるほどの意志=信仰=勇気がなかなかないのが多くの人の現実ではないかと察します。しかし、それを百も承知していておられたので主イエス・キリストはこの世に来て下さり、私たちの一切の不信仰も不従順も背負って自ら十字架に向けて最後まで歩んで行かれたのです。私たちは当時の弟子たちとは違います。弟子たちは復活のキリストと出会っていかなったからです。ただし、現在の私たちは十字架に付けられ、それから復活を遂げた主イエスに出会った弟子たちと同じです。今は弟子たち同様に復活された主イエスから私たち一人一人に与えられる聖霊の導きと力添えによって、すべては可能となるのです。自分だけの力で勝負するのではなく、神から一人一人に与えられている十字架を自らに背負う者こそ、ここで主イエスが語られていることの真実を体験できる人だということです。
あなたはどこまでこのことが真実であることを理解されているでしょうか。どこまでこのキリストの言葉を信じて実践されたでしょうか。最後の26節の言葉が真実だと体験した人は幸いな人です。
<ウィリアム・バークレー著:ヨハネ福音書162p引用>
いったいどうしてこれらのギリシャ人たちはイエスをたずねて来たのか。また、彼らがイエスに関心を持ったのはなぜか。J・H・バーナードはきわめて興味ある推測をしている。イエスが神殿をきよめ、両替人や鳩を売る人を神殿の庭から追い出したのは、彼の伝道生涯の最後の週においてであった。ところでこれらの行商人たちは《異邦人の庭》にその売場をもっていた。それは大きな庭で神殿の最初の庭であった。異邦人はその庭に入ることはゆるされたが、それより先に進むことはゆるされなかった。これらのギリシャ人がエルサレムに滞在していたとすると、神殿をおとずれ、異邦人の庭に立ったことがあるに相違ない。おそらく彼らは、イエスが神殿から商売人を追い出したあの日の出来事を実際に見たのではなかろうか。そして、そのようなことができる人について、もっと知りたいと願ったのではなかろうか。
いずれにせよ、これは福音書物語の中で極めて重要な時点の一つである。ここには、福音が全世界に伝播されることについて、ほのかではあるが最初の暗示がみられるからである。