1/31日ヨハネ9章35節~10章6節「これがわたしの羊」…その2
総合テーマ キリストに何を期待すべきか?
☆黙想のポイント1
・41節の「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と言われた主イエスでした。この意味を黙想しましょう。
★黙想1から導かれるメッセージとチャレンジ
・上記の御言葉の直前に「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と主イエスは言われました。主イエスがここで語っておられる「見える」、「見えない」はもちろん実際の視力を指している言葉ではありません。見えていなかった者が見えるようになると言う主イエスの言葉の意味とは、神が遣わされるキリスト(救い主)が誰であるのか今まで分からなかった者が主イエスこそ、キリスト(救い主)であると見出す人のことです。各人が救い主であるキリストと出会い、正しくキリストを見出すためには何よりも救い主を求める心が不可欠です。盲人は到底叶えられないと思っていた自分の目の障害を癒されることによってキリストへの関心がぐんと高まったと言えます。主イエスはその人の救い主と出会っていく時を見定めて彼にご自身を明らかにされました。
・一方でファリサイ人たちのように自分に本来必要不可欠なもの(キリストと出会うという課題)があるにも関わらずそれが欠けているという自覚があまりない人というのが、「見える」と自称しながら実は最も必要不可欠な救い主への正しい信仰を見出していない人のことです。彼らは自分たちの正しさの基準となるべき救い主を見出そうとする思いが欠けていました。そのため、彼らの目の前に真の救い主であるキリストが来られたにも関わらず、それに気づくどころか、キリストを見下し、本来始めることができたはずのかけがえのないキリストとの関係を逆に遠ざける結果となりました。
☆黙想のポイント2
・6節にファリサイ人たちは分からなかったとあります。私たちはどうでしょうか?黙想しましょう。
★黙想2導かれるメッセージとチャレンジ
・このたとえはどこに焦点があるのかとても分かりづらいところがあります。門が何を意味するのか、ファリサイ人たちはこのたとえでは何に当たるのかが不明確となっています。恐らく門とは神と私たちをつなぐ役割をするもののことで、信仰や聖書つまり神の言葉を指すものと理解することができるでしょう。真の羊飼いである主イエスは正しい信仰と神の御言葉を通して羊たちと関わり合うのに対して、ファリサイ人たちはそれとは違い、昔の人々の言い伝えを重視するあまりに柵を越えて羊たちに害を与える盗人のような存在になってしまっていることを暗示しているものと考えられます。また一方では、彼らもある意味では囲いの中にいる羊なのですが、主イエスを神から遣わされた彼らの羊飼い(救い主)だという認識がないために、主イエスの声を聞いて従って門を通って豊かな牧場にいくことができない愚かな羊として二重に譬えられていると考えられるのではないでしょうか。果たして、私たちはどうでしょうか。実際の私たちの生き方がそれを裏付けるのです。