ヨハネによる福音書2章1-12節「栄光の始まり」
総合テーマ キリストに期待する人々
黙想のポイント
その1 ヨハネ福音書には意図的に主イエスが約束の救い主だということを証明する7つのしるしを行われたことを書き留めています。その最初のしるしがカナの婚礼で水をブドウ酒に変えるというしるしです。これはどんなしるしとしてヨハネは書いたのでしょうか。共に考えましょう。
その2 主イエスの御業が起きるためには主イエスに信頼し、協力する人々が必要でした。この箇所ではそれはだれだったでしょうか。複数いると考えられますが、あなたはどう考えますか?
・このような協力者に今日私たちも招かれています。あなたの果たすことができる役割とは何でしょうか?
◆カナでの婚礼
2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
>>>主イエスがフィリポとナタナエルと出会って三日目にカナでの婚礼に参加しました。そもそもイエスがアンデレとペテロを弟子にした後にガリラヤへ行こうとしていたのはこのためだったことが分かります。そこにはイエスの母マリヤもいたことから、主イエスの親戚すじの人の結婚式だったと思われます。しかも実は主イエスの兄弟の結婚式だったという可能性もあるのではないでしょうか。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
>>>よほど結婚する当事者たちと主イエスは親しい間柄だったのでしょう。イエスの弟子になったばかりの者たちも婚礼に招かれました。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
>>>物語が面白くなって来るのはここからです。ぶどう酒が足りなくなった時、イエスの母がその事態に気づくことができるような立場にいたことが分かります。そして意味ありげに息子にそのことを伝えています。主イエスに何を期待してこのようにいったのでしょうか。これに対する主イエスの返事もまた謎に満ちています。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
>>>このイエスの会話には不可解な点があることにだれもが気づきます。まず母のことを「婦人よ」とよそよそしく言うのは何故でしょうか。主イエスと母マリアの関係が当時仲が悪かったなどとは考えられません。また親子という特別な関係があるにも関わらず「わたしとどんなかかわりがあるのです」とはまたどういう意味なのでしょうか。さらに最後には「わたしの時はまだ来ていません」という不可解な発言が続きます。「わたしの時」とはいつの時なのでしょうか。十字架に掛けられる時のことでしょうか。仮にそうだとすると婚礼でぶどう酒が足りなくなったこととどう結び付くのでしょうか。ヨハネ福音書の19章で主イエスが十字架に付けられる場面でもマリアのことを婦人と呼び、弟子のヨハネに母を託していますが、主イエスにはその最後の時が事前に分かっていたかのような一連の意味ありげな会話になっています。
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
>>>どうにも理解できない息子イエスの返事ですが、それでもマリアは意味ありげに召使いたちに今度はマリアも息子に負けずに「この人が」呼ばわりしながらどんなことでも「そのとおりにしてください」と念を押しています。イエスの母マリアのこの口添えがなければ果たして召使いたちはこの後主イエスが彼らに指示する無理難題に素直に従ったかどうかと考えてしまいます。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
>>>ここでこの後で奇跡の元となる石の水がめが登場します。1メトレテスというのは39リットルだそうです。
従って1つ当りの水がめの量は約80リットル~120リットル仕様のものであり、それが6つあったことになります。単純計算で最低でも80×5+120=400ℓ+120ℓ=520ℓの量になる計算です。これを多いと見るのか、少ないと見るのか当時の常識と出席人数が分からないのでなんと言えないのですが、現代の結婚式で考えるならばワインのボトルは1本750mlとして計算すると693本分のぶどう酒の量になります。当時の人は1人何本のぶどう酒を飲んだのでしょうか。また、料理にどれだけ用いられたのでしょうか。定かではありませんが、かなり多い分量と言えるのではないかと想像します。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
>>>このような指示に対して召使いたちが素直に従ったのはやはり母の言葉の助けがあったからでしょう。それなりに重労働だったと思われますが、召使いたちは言われた通りに仕事を進めて水がめが水で満タンになりました。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
>>>これらの会話から水が単なるぶどう酒に変わったどころか最上級のぶどう酒に変わったことが分かります。このことにより、結婚祝賀会はどれほどその後も喜びに満ち溢れた時となったことでしょうか。花婿が面目を保つことができたのは言うまでもありません。
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
2:12 この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
>>>最後の12節にはイエス家族と弟子たちとで引き続きカファルナウムで結婚式後の交わり(慰労会?2次会?親戚周り?)を続けたような記述になっています。やはり主イエスの兄弟の結婚式だったのではないかと思わずにいられません。4つの福音書から想定されているのは、イエスの父であるヨセフは早い段階ですでに天に召されていなくなり、イエスが一家の大黒柱として家族を支えていたという説です。主イエスがいよいよ神から与えられている十字架に向かっていく使命を開始するに当たり、最初に行ったことは、自分の家族(あるいは身内)が関係する結婚式が最後まで喜びに満ちたもので終わるように自分にできる精一杯の花向けのプレゼントを裏方に徹して目立たずに贈ったことでした。しかし、それは同時に自分の最後を連想させる出来事であったため、そのことに少なからず戸惑いを見せながらも、主イエスは最後まで家族の幸せを願いながら家族と過ごすことが出来る最後の機会を大事にしたのではないでしょうか。こうして主イエスの最後の3年半の伝道生活が開始していきます。それは全人類を永遠の幸せへと招くために自分の持てる命(血=晩餐式のブドウ酒)をすべて注ぎ出す出来事の始まりだったのです。