ヨハネによる福音書4章1-26節「渇かない水はどこから」
総合テーマ キリストに何を期待すべきか?
黙想のポイント
その1 真実の礼拝とはどのような礼拝だと主イエスは語っておられるでしょうか。
その2 あなたは真実の礼拝を捧げ、サマリアの女性のように礼拝の場から送り出されているでしょうか。
◇前回と今回の間の聖書の出来事…
2:13~神殿商人を追い出す➡3:1~ニコデモとの会話➡3:22~バプテスマのヨハネによるイエス批評
◆イエスとサマリアの女
4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、
4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。
>>>主イエスがサマリアを通らなければならなかったのは1節にあるようにファリサイ派の人々の耳にバプテスマのヨハネ以上に主イエスが弟子をつくったことと関係していると思われます。そこでユダヤ人たちが避けて通るサマリアをあえて選んで通過したと言うことでしょう。
4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。
>>>シカルはちょうどヨセフの二人の息子マナセとエフライムの領土の境界にある場所で歴史的にはカナンにイスラエルの民が戻って来た後に12部族がエバル山とケリジム山に分かれて登り、そこで神に従う時に祝福され、背けば呪われるという契約を再確認しています。そのエバル山の東斜面に位置する町と考えられています。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
>>>普通あまり水汲みにいかない時刻…そのような時に水を汲みに来るその女性は人目を避けて生きなければならない事情があったと考えられます。その理由の一端がこの後明らかになります…
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。
>>>場面はイエスとサマリアの女の二人きりという設定だということが分かります。
4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
>>>主イエスの少し頓珍漢とも思える問答の開始です。なぜ水を飲ませてほしいと彼女に頼むのかという彼女の質問に対して、主イエスは私が誰か知っていたらあなたの方が「生きた水」を求めて与えられたことだろうと語りました。
4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。
>>>女性の当然の質問が反って来ます。この井戸の水すらも自分で汲んで飲めないあなたがどこでその「生きた水」を手に入れるというのですかと…
4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
>>>聖書教育ではこの箇所の説明で女性が理解したと想定していますが、15節で女性が「また、ここにくみに来なくてもいいように、その水を下さい」と語っているので、主イエスの言葉をまだ十分には理解していないと考えた方がいいのではないかと思います。
4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
>>>またまた主イエスの一件頓珍漢な会話が続きます。
4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
>>>彼女の不名誉な生活実態を主イエスはご存知でした。
4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
>>>彼女のことを言い当てた主イエスに対する彼女の態度が変わり始めます。敵対関係にあった一人の変わったユダヤ人という見方から聖書に登場するような預言者の一人だという見方へと変わり始めます。そして、さらに変えられて行くことになります。…そこで彼女は前からユダヤ人とサマリア人との間で言い争いの元の一つとなっている正当な礼拝場所論争について話題を移しました。これに対して主イエスは単刀直入にまず「私」つまり主イエスを「信じなさい」と語り、次に言い争いの元となっている二つの礼拝所のどちらでもない所で礼拝する時代が来ることを語りながら、礼拝場所よりも礼拝する対象者である神についての正しい理解に基づく礼拝がとても大切だということを強調しました。その上で聖書の預言通り、救い主はユダヤ人から登場することを再認識させて救い主の到来を待ち望みながらユダヤ人に対する敵対意識を持つことの矛盾を悟らせようとされました。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
>>>今回一番の重要箇所です。主イエスは真の礼拝をする時が来ることを語り、同時にそれが将来ではなく、今のこの時こそがその時であり、父なる神が求めておられる真の礼拝だと宣言されます。これはどういう意味でしょうか。サマリアの女性もまだ主イエスに対する信仰も不完全のままなのですが、主イエスは今のこの時の状況を父なる神が求め=喜ばれる真の礼拝の姿だと宣言されます。どうしてこのように言えるのか…今この場所にこそ最も礼拝における大切な要素が揃っているからだということになります。私たちが真実の礼拝を捧げるには完全な神への知識は必須条件ではありません。サマリアの女性はまさに不完全なキリストに対する知識しかまだ持ち合わせていませんでした。しかし、今の彼女にはそれでも神が求めておられる礼拝の条件を満たす状況にあったのです。・・・それは第一に彼女が真剣に主イエスから真理を学ぼうとする信仰姿勢があったこと、次に「霊と真理」の源である主イエスが彼女と共におられて導いておられたからではないでしょうか。この二つの条件がそろって片方が真剣に神を求め、もう一方が喜んでそのために霊と真理を与える救い主がおられるという条件が揃う場所、それこそが神が求めておられ、人類に与えようとされている礼拝なのだと主イエスは語っておられるのです。
4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
>>>このような主イエスとの会話の中で彼女の理解が深まり、キリストについての核心的な話題へと進みます。これに対し、新約聖書ではこれほど明確に主イエスがご自分のことを明らかにしている箇所はないというくらいに明確に自分がメシア=キリストであることを宣言されます。…考えて見ると、今回の箇所には主イエス・キリストが与えて下さる永遠の命に至る道が語られ、自分=主イエスを信じるように促し、真実の礼拝とは何かということが語られ、主イエスこそキリストだということが語られています。まさに第一級の伝道礼拝へと主イエスがサマリヤの一女性を招き入れて下さっているのです。自分の命さえ狙われていた主イエス、のどが渇き、疲れを覚えていた主イエスでしたが、難しい人生を歩んでいた一人の女性に対して彼女のために心のこもった説教をされたのが今回の場面ではないでしょうか。そして、その場所をかけがえのない彼女がこれまで経験したことのない真実の礼拝の場へと変えて下さったのです。このことをきっかけにこの後、彼女を通して多くのサマリヤ人が主イエス・キリストへと導かれることになるのです。神様はあらゆる人々を人種を越えて救いに導き、用いて下さることに感謝します。