出エジプト記17章1~7 節「ホレブの岩の上で」
総合テーマ 逆境の中でも神の導きに信頼する信仰
黙想のポイント
その1 6節を参照下さい。
その2 7節を参照下さい。
◆岩からほとばしる水
17:1 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。
>>>イスラエルの民は旅をシナイ半島の南に向けて続け、シンの荒れ野とシナイ山の間くらいにあるレフィディムという場所まで来ていました。もうシナイ山も目と鼻の先です。しかし前の16章でマナという食料を日々主から与えられるようになったイスラエルの民でしたが、もう一つ深刻な問題が彼らを待ち受けていました。食料と同様に重要な飲み水がなかなか手に入らないという問題でした。
17:2 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」
>>>奇跡的に荒野でマナという食料を日々手に入れることができるようになったイスラエルの民でしたが、またすぐにモーセに対して飲み水について抗議し始めた民の姿が語られています。2節には民がモーセと「争い」とあります。本来敵ではなく、争う必要のないはずのモーセに向かって、まるで自分たちの敵であるかのようにモーセにくってかかった情景が目に浮かびます。モーセは正直にその疑問を民にぶつけました。「なぜ、わたしと争うのか」と。そして、それは「主を試す」つまり主に信頼していないことに等しいことを民に語りました。
17:3 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
>>>しかし、よほどのどが渇いていたのでしょう。また、3節にはっきり書かれているように、子どもたちも、家畜も危機的な状態になって来ていたようです。不平を言わずにモーセに窮乏を訴え、神に一緒に祈ることもできたはずの民でしたが、まだまだ真の神の民としての生活習慣であったり、考え方、会話や議論の仕方は身についていないようです。私たちの日常会話についても振り返って見る必要がありそうです。何か都合が悪いことや腹が立つことや空腹時にどんな言葉遣いを互いにしているでしょうか。こんなところにも私たちへのメッセージがありそうです。
17:4 モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、
>>>何か不都合な状況になると民は誰かに鬱憤や不満をぶつけやすいようです。そして、それは誰かを殺すような暴動に発展しかねない状況が描かれています。神の民として生きるということはどんな民族よりも優遇された生活が保障されることではなく、時には他の民族よりも忍耐と信仰を求められる状況を経験させられることが示唆されています。イスラエルの民は長く奴隷状態にいたために、まだまだ神の民としての品性が備わっていないようです。また、実際に我々でも果たしてこのような状況におかれたならば、どれだけ冷静に神に信頼し、全体祈祷会などを開いて共に神に執り成し祈ることができるでしょうか。考えさせられます。
17:5 主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。
>>>モーセはこのような時、常に神に祈ることを怠りませんでした。そして、その祈りに神は最善の道をその都度示されました。神の偉大な力を示す「あめんどうの杖」を手にモーセは民の先頭に立って代表的な長老たちと共に民の前をシナイ山に向かって進みました。
17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
>>>ホレブの山に向かい、岩場に向かうように神はモーセに告げます。その岩の上に神の力強い御手が臨み、神の杖で岩を打つと、水が出るようにされると神はモーセに告げました。…この後の詳しい描写は一切語られません。そこに付くとモーセは神に指示された通りにしたとだけ報告されています。少し物足りない気さえしますが、これによりイスラエルの民のことについて我々に考えさせる効果があるように思います。この時の民はどのような反応をしたのでしょうか。分かち合いのポイント①と致します。
17:7 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
>>>どうしてこうも繰り返し、繰り返し、イスラエルの民は神の導きとお守りに信頼せず、すぐに敵対的なものの言い方を仲間に対して口にし、神が自分たちの状況や会話を知らず、聞いていないかのような態度を取ってしまうのでしょうか。私たちの日常にも同じようなところはないでしょうか。分かち合いのポイント②と致します。
ヘブル人への手紙 11章1節 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。イスラエルの民が受けている試練とは、まさに信仰訓練ではないかと思わされます。神に信頼してその導きを祈り求めて神の御心を仰ぐこと。試練の中で彼らが経験し、身に着けて行って欲しいと神が願われる理由が神の側にはあることを彼らは少しずつ悟って行ったことでしょう。
コリントの信徒への手紙Ⅱ10章13節 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」
アーメン