出エジプト記3章1~15節「道をそれた先で」
テーマ 約束の成就…どんな時にも約束を忘れず、果たしていかれる神
黙想のポイント
その1 「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われる神の名の意味と価値を黙想しましょう。言語としては「最高存在」という意味のある言葉ですが、モーセやイスラエルにとってこの名はどのような影響を及ぼすことになるのでしょうか。そこが今回の重要なポイントです。
その2 「わたしは何者でしょう。」と神に問い、神の名を問うモーセ。自分のアイデンティティを見失っているモーセにとって神を知ることから大きな変化が生じていきます。この箇所をそのようなテーマで黙想してみましょう。
★グループでの話し合いのポイント
・モーセはこれまで人生に翻弄されて生きてきました。そして自分のアイデンティティや存在理由が分からなくなっていたものと考えられます。奴隷であるユダヤ人の子として生まれたにも関わらず、エジプトの王家の子として育てられ、同朋を助けて見ても同朋からはよそ者扱いされ、おそらく王家の方からも真には受け入れられていなかったモーセの複雑な家庭事情が想像できます。そんな彼が殺人罪で負われる身となり、怖くなって逃亡してますます自分を隠して生きなければならなくなっていました。落ち着いた先はミデアンの祭司の家での羊飼いの仕事でした。王家の家から祭司の家に移り住んだモーセでしたが、殺人逃亡者としての過去が帳消しになるわけではありません。彼はどんな思いでミデアンの地で暮らしていたのでしょうか?過去の「あの出来事」がなければとか、過去に「あーしていれば」今の人生はもっと違っていたはずが、と言うような反省の中に生きている人はいないでしょうか。そのことのために今後の人生にも大きな期待や希望を持てないでいる人がいるとすれば、モーセの心境が少しわかるのではないでしょうか。彼には将来の希望が果たしてあったでしょうか。自分がモーセの立場にいたらどう生きただろうかと互いに想像して分かち合いましょう。
◆モーセの召命
3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。
3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
>>>ここに登場する柴とは、人生にもはや大した希望が持てないでいる人を象徴しているようなものなのかも知れません。普通、燃やされれば燃え尽きてしまう存在です。しかし、この場面はそんな普通の柴とは違う人生があることを示唆するかのように私たちの常識を覆す出来事が置きます。燃えている柴が燃え尽きないのです。モーセが殺人を犯して逃亡したのは成人して間もなくのことでした。7章6節によればモーセがパロの元に行ったのが80歳の時であったことが分かります。そうすると少なくとも60年以上の歳月がミデアンの地で過ぎていたことになりますし、モーセの老齢の域に達していました。人生が燃え尽き始めていた時期と言えないでしょうか。そんな彼の目の前に神は燃え尽きない柴として現れたのです。
3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、
3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
>>>ここに神と出会うモーセが描かれます。その神はモーセの名前を明確に知っていました。彼の名前で呼びかける神でした。また、その神は聖なる神であり、神のおられる場所は聖く保たれるべきことが求められることをモーセに伝える神でした。そのような神との関わりを持つ者はそれにふさわしい態度が求められることも示唆されています。モーセはくつを脱ぐことによってそれを示すように要求されました。その上で神はモーセに先祖の時代から関わり続けておられる神であることを明らかにされました。つまり、遙か以前から今日特別に出会ったモーセを御心に覚えておられた神だということを話されたのです。このことは創世記15章で神がアブラハムに告げられた将来の話しと符合します。本当に神は時代を超えて今日の私たちとの出会いを幾世代も前からご計画に入れておられるような神なのだということがここで語られています。
3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
>>>神は恐れをなしているモーセに自分の名前を明かします。名を明かすということは、関係を築く第一歩です。そして、それは自分の人格を相手に開示することでもあります。モーセは神の真の姿を目の当たりにする特別な機械を与えられました。神の名を知ることこそ、人生における最も重要なできごとなのかも知れません。神はただ単に最高存在であるという意味の神の名前をモーセに伝えたのではなく、実はあらゆる存在を存在足らしめる神なのだということがここで表現されていることなのではないでしょうか。ただ、生きているに過ぎないような人生を送る人はなんと多いことでしょうか。しかし、聖書の神はどんな過去があっても、またどんなに人生が終盤に向かっていても、その日、その日、人生の一瞬、一瞬を共にいて私たちと関わりながら私たちをこれまで以上に価値ある存在に変えて下さる神だと言うことがここで示されているとしたらなんと素晴らしいことでしょうか。これこそ希望の神です。神が共におられることを真に実感できる人生はもはやそれまでの人生とは全く変わってしまいます。自分のこれまでの人生のすべてとこれからの人生のすべてが考えもしなかった価値あるものとして違って見えてくるのです。神が共におられるというただそれだけで、人の人生の価値観は180度変えられ、これまでにない輝きを放つことになるのが、神の名を真に示され、理解する人間に起きる人生における一大転機と言えるでしょう。
モーセはこの神との出会いによって予想もしていなかった人生が80歳から開かれていくことになるのです。そして、これまでの人生におけるすべての経験の意味が理解できるようになっていくのです。すべてには神の側では意味があったことをモーセは理解できていくことになるのです。そして、そればかりではありません。彼は神によって新たな人生の使命が与えられました。彼は神の使者として遣わされるのです。また神の民を試練と滅びの中から導き出すために遣わされるのです。そして最終的には今彼が靴を脱いで神の前にいるその聖なる山で神に仕えることになっていく人生が彼を待っていることが告げられたのです。これまでのモーセには想像もできなかった人生が神との出会いによってもたらされようとしているのです。
3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。
>>>聖書の神は人に存在意義と価値を与え、また世代を超えて君臨される愛と正義の神です。そしてこの神はあなたをどのように用い、遣わされるのでしょうか。これからの各自の人生をもう一度黙想してみましょう。